ymtetcのブログ

偶数日に『宇宙戦艦ヤマト』を考えるブログです。

大切なのは「映画の立ち位置」:映画『ヤマトという時代』

こんにちは。ymtetcです。

映画『「宇宙戦艦ヤマト」という時代 西暦2202年の選択』が描くのは「愛」ではなく「人類」「世界」の「歴史」であるらしい。前回の記事ではそんなことを書きました。

そこで、この観点から『ヤマトという時代』について、さらに考えてみたいと思います。

〇『ヤマトという時代』キーワード(おさらい)

まずは、前回の記事でピックアップしたキーワードをおさらいしておきましょう。

ドキュメンタリー映画

「『ヤマトの歴史』をひとつの視点で真摯に問い直す」

「そのときどきに起きた事象、関わった当事者たちの心情に、距離を置いて新しい光を当てる」

「意味の再発見」

「『人が宇宙に出た意義』を引いた視点で再吟味」

宇宙戦艦ヤマト史」

「描かれてきたものの本質」

「(新しいステップに踏み出すために必要な)宇宙叙事詩

「(『現実への暗喩と風刺によって構築された』)”世界”を0から見つめ直す旅」

「新作映像をもって現実から分岐し、銀河の外へと飛び出す未知の旅」

「人類史・宇宙史に刻まれる歴戦の全記録」。

前回見たように、ここにきて『2202総集編』には「歴史」もキーワードに加わったと言えます。そしてこれは、作品の在り方を予測する上では大きな違いを生みます。

単なる「ドキュメンタリー」の場合だと、『プロフェッショナル』や『情熱大陸』といった王道のドキュメンタリーをも内包した広いジャンルですが、ここに「歴史」が加わることにより、「歴史ドキュメンタリー」というジャンルにひとつ焦点が当たるのです。

〇『ヤマトという時代』は「歴史ドキュメンタリー」なのか

「歴史ドキュメンタリー」として具体例を挙げると、『歴史秘話ヒストリア』や『映像の世紀』がここに当てはまってきます。

www4.nhk.or.jp

www2.nhk.or.jp

どちらもNHKの番組ですので、なかなかその雰囲気をお伝えすることはできません。ただ、『歴史秘話ヒストリア』については、雰囲気としては日立市が公開している「歴史ドキュメンタリー」に、再現ドラマを加えたものだと考えていただいてよいと思います。

www.youtube.com

果たして、『ヤマトという時代』はこういった雰囲気で映画を進めていくことになるのでしょうか。

〇「ドキュメンタリー映画」として

あるいは、歴史系の「ドキュメンタリー映画」としてはこういったものもあるようです。予告編を載せておきますね。

youtu.be

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どちらも実際に観ているわけではないので何とも言えませんが、このアプローチの場合は関係者へのインタビューが展開の軸になってくるでしょう。

恐らくですが、現在の『宇宙戦艦ヤマト』の状況、しかも新興スタジオが制作を担当することを考えると、大量の新規カットを投入する体力は望めません。特に今回、新規カットが『2199前史』の方で必要になってくる。とすると、『2199』『2202』時期の場面カットはできれば本編映像を活用したいところですよね。これらの事情を踏まえれば、関係者のインタビューとナレーションを加えて「歴史ドキュメンタリー番組/映画」風に仕立てることは、ごくごく現実的な選択肢に入ってきます。

〇大切なのは「映画の立ち位置」

ただ、こうなった場合重要なのが、”劇中世界における映画の立ち位置”です。

「ドキュメンタリー」の要素を持つということは、現実世界の我々にとってはフィクションでありながらも、劇中世界の人々にとってはノンフィクションだということです。

であれば、『ヤマトという時代』は劇中世界の人々にとってどんな映画なのか。ここがすごく重要になってきます。

冒頭でおさらいしたキーワードを見る限りでは、『映像の世紀』や「歴史系ドキュメンタリー映画」のような立ち位置かもしれません。「実際の映像」を交えつつ、ここに関係者の証言も加えて、少し引いた地点から過去を振り返る。観客は映像から歴史を「体感」して、歴史への「感覚」を再構築していく。そんな感じの映画なのかもしれません。

とすると、次に問題になるのが「いつの映画なのか」です。

劇中世界で公開された映画だとして、いつ公開された映画なのか。これによって、「映画で明らかにできること」の範囲が変わってきます。

もし、劇中世界の「観客」と(いま『2202』と『2205』の狭間を生きる)現実世界の観客の視点を合わせるのであれば、『2202』ラストの〈西暦2203年〉と『2205』冒頭の〈西暦2205年〉の間、西暦2203年~5年の間に公開された映画と位置づけるのがよいでしょう。それが無難だと思います。

ですが、敢えて意外性を持たせるのであれば、個人的には、むしろ『2205』の後に公開された映画と位置づけるのも悪くないなと思っています。

"実は、『ヤマトという時代』は劇中世界ではシリーズもので、この『西暦2202年の選択』はシリーズの第一作、次回作は『西暦2205年の〇〇』、その次は『西暦22xx年の△△』……と続いていく"みたいな(笑)。

『ヤマトという時代』を『2205』の後に公開された映画とした場合にはメリットがあります。メタ的には望ましいであろう「『2205』の出来事を前提とした映画の構成」に、理由づけができるんですね。そこで、こういった遊び心も持ち込んでもいいのかなと思います。

いずれにせよ本作は、現実世界を生きる我々に対する映画の立ち位置だけではなく、劇中世界を生きる人々に対する映画の立ち位置もはっきりさせておきたいところ。ここをがっしりと固定できれば、少なくとも『追憶の航海』のように、映画の中で視点がばらけてしまうことにはならないはずです。

『ヤマトという時代』は、劇中世界の誰が観る映画として作られたのか(プロパガンダ的要素を含むのか含まないのか)、いつ作られ、いつ公開されたのか。この側面において答えを統一して、全体を構成することができたらいいですね。逆に、我々がこの映画を観る上での論点としても、この問題は必要だと思っています。

〇「人類」「社会」「世界」の歴史を描く映画として

繰り返しになりますが、『ヤマトという時代』は「人類」や「世界」の歴史に焦点を当てます。

例えば、本編では山南のドラマに収斂させるように描かれた土星沖海戦は、『ヤマトという時代』の作風からすればもっと大きな視野から捉え直す必要があります。無論、山南の心情に触れていくこともあるかもしれませんが、それ以上に、「人類」や「世界」の歴史の中にこの戦いを位置づけていきたいところです*1

思えば『2202』本編は、それまでズォーダーと古代の間で展開されていた葛藤のドラマを、最終回にて意図的に「世界」「人類」、すなわち「社会」の側に投げ返す構造をとっていました。だからこそ、『2202』構成メモの最後の一文は「人類の新たなる旅立ちが、ここから始まる」なのです。ある種、福井晴敏の「社会派作家」としての意地が垣間見えるラストだとも言えます。

そして、『ヤマトという時代』はまさに「社会」と「人類」の歴史に着目する。

古代進の葛藤とその克服」に重点に置いた『2202』は言うまでもなく、「宇宙戦艦ヤマトの旅」に重点を置いた『2199』もまた、「世界」や「人類」といった大局的な視点を必ずしも持ち得ていたわけではありません。この分野にはまだ手を加える余地が残されています。ここに目を付けた時点で、福井さんは主導権を握ることに成功したと言えるでしょう。あとは福井さんが、どこにどんな球を投げてくるか次第です。

近年では「アニメ脚本家」「映画の企画屋」がすっかり板についてきた福井さんですが、この映画を通して、改めて「社会派作家」としての真価も問われてくることになるでしょう。

*1:「戦史モノ映画」としては、現実世界での『ミッドウェイ』や『山本五十六』『ダンケルク』『プライベート・ライアン』etc……のような多様な「戦争映画」テイストで土星沖海戦を取り上げるのも不可能ではありません。ただ、長いタイムラインを取り上げる本作には不向きなアプローチでしょうね