ymtetcのブログ

偶数日に『宇宙戦艦ヤマト』を考えるブログです。

【ヤマトという時代より】古代とズォーダーに共通する「あきらめ」

こんにちは。ymtetcです。

映画『ヤマトという時代』では、真田の目を通して「古代がどのような選択をし、どのようなことを考えて生きてきたか」が描かれました。その結果、映画の感動そのものは『2199』『2202』の域を出るものではなかったものの、作り手の伝えたかったメッセージが、より鮮明になったと思います。

中でも今日取り上げたいのは、「第25話ラストで、なぜ古代は死を選んだのか」です。

40年前の古代進は「こんなに苦労し、絶望する未来に汲みするぐらいなら死ぬ」と、森雪とともに理想に殉じたわけです。でも今回、古代進に対して「生き続けるならこういう奇跡があるかもしれないよ」と立証できれば、「さらば」に対する返答になるかという気持ちでした。受け取られる方は様々だと思いますが、何をしたかったかというと「さらば」に対して40年ぶりに返事を書いたというのが自分の答えです。

『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』最終章舞台挨拶レポート、「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」への40年越しの返事 - GIGAZINE

福井さんは、『さらば』ラストの古代進の行動について「こんなに苦労し、絶望する未来に汲みするぐらいなら死ぬ」「理想に殉じた」行動だと解釈しています。そして、直後に『2202』ラストの話をしているということは、基本的には『2202』第25話の行動も、「こんなに苦労し、絶望する未来に汲みするぐらいなら死ぬ」行動として設定されていたと考えていいと思います。

では、「こんなに苦労し、絶望する未来に汲みするぐらいなら死ぬ」行動とはどんなものか?(今更ですが、恐らくは「与する」ですよね……)

そこでヒントとして念頭に置きたいのが、前回の記事で取り上げた、第23話における古代進の「選択」です。

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前回の記事で書いたように、第23話の古代は「ヤマトとクルーを犠牲にしてズォーダーを説得する」選択をしました。結果、どれだけの犠牲を払っても、古代はズォーダーを説得することができません。そして第25話、古代はこう呟きます。

「食い止める術は、もうない」。

『ヤマトという時代』でこのセリフを再度聞いた時、私は、この時の古代はもしかしたら「あきらめ」ていたのかもしれない、と思いました。

このセリフに、以下の言葉を補ってみましょう。

「食い止める術は、(俺には)もうない」。

少し強引な解釈ではありますが、この言葉を補ってみると、あの時、古代は「あきらめ」ていたのだと考えることも可能だと私は思います。

たくさんのクルーを犠牲にする選択は、古代の心を強烈に裏切るものでもあったでしょう。古代にとってはあの選択こそ、ズォーダーを説得するための最後の手段だった。それなのに、ズォーダーを説得することはできなかった。俺には、もうどうすることもできない……。こういう流れです。

第25話の古代の選択は、「俺が時間を稼ぐからみんな生きてくれ」。要は、自分自身の人生を投げ出すものでした。自分が一番選びたくなかった選択をして、それでも失敗に終わった古代の心には、どこか「あきらめ」もあったのではないでしょうか。

さて、古代の行動を「あきらめ」と解釈した時、実は古代と敵対したズォーダーもまた、ある「あきらめ」の感情を抱いていたと考えることもできます。

以下は、古代とズォーダーを対比的に考えてみましょう。

第23話で古代が選んだ「クルーを犠牲にしてズォーダーを説得する」道は、古代の心を裏切る選択でした。つまり古代は、他でもない自分自身に裏切られたと言えます。

一方ズォーダーは、かつてゼムリア人に突きつけられた「悪魔の選択」で、ルール違反を犯したゼムリア人に自分の心を裏切られています。つまりズォーダーは、人間に裏切られた経験を持っているのです。

そしてズォーダーが辿り着いた結論が、「全ての知的生命体(人間)の抹殺」。ここにあるのは、「人間は所詮”愛”や”感情”に囚われて、理性的に判断することができない」という「あきらめ」です。

 

『2202』ではズォーダーと古代がどこか重ねられている……そんな話はこのブログでも何度かしてきましたが、自分自身を「あきらめ」ている古代と、人間を「あきらめ」ているズォーダー、そんな形で、二人を重ねることもできるのではないでしょうか。

そうすれば、最終話の国民投票は「人間はこういうこともできるのだから、あきらめるなよ」という福井さんのメッセージとして、受け取ることもできると私は考えます。