こんにちは。ymtetcです。
『ヤマトという時代』には、皆さまそれぞれにとっての新しい解釈が盛り込まれていたことと思います。
その中で今回私が驚いたのは、『2202』第七章のとあるシーンの新解釈でした。
古代「綺麗事は言わない。きっと、どちらかが滅びるまで終わらない戦いになる。それでも……」
透子「(聞いている)……」
古代「彼が……若きズォーダーがくれた希望を、次に繋ぐために……」
ミルの遺体を見つめる古代。そのためなら鬼になる、と告げている決然とした横顔。
このシーンを、『ヤマトという時代』は「選択」の一つであったと解釈していました。
つまり、ここで古代は、ヤマトとそのクルーの命を投げ出してでも、ズォーダーとの和解の機会を得よう、と決意したのです。自らが理想とする「異星人との相互理解」を実現するために、ガトランティスに対して一歩も引かない戦いを挑む。それもまた、人間が人間の命を「選択」する行為であると、『時代』は解釈しました。
すると、第25話で古代が下した「自らの命を犠牲にして滅びの方舟を足止めする」決断は、古代の主観からすれば、第23話で下した「ヤマトとそのクルーを犠牲にしてズォーダーを説得する」決断と表裏一体だと見ることができます。また、第23話の決断の落とし前を、第25話でつけたと解釈することもできるでしょう。
ここまでを整理しておきます。
- 第23話:ヤマトとそのクルーの命を犠牲にしてズォーダーを説得する
- 第25話:自らの命を犠牲にして滅びの方舟を足止めする
このように整理すると、第26話には、
- 第26話:時間断層を犠牲にして古代進を救出する
この「選択」があることにも注目しなければなりません。
この第26話の「選択」が面白いのは、それまで、第23話と第24話での「選択」が
- 命を犠牲にして大義を実現する
ものであったのに対して、第26話は
- 「大義」を犠牲にして命を守る
ことである点です。「命を守る」ことを「大義」としている、と見ることもできるでしょうか。いずれにせよ、どちらを犠牲にするのかという点で、第25話までの「選択」と第26話の「選択」は対比的なものであったと言えます。だからこそ、古代はあの第26話で、国民の「選択」によって命を救われ、心も救われた……。古代が下してきた決断と、国民の下した決断が対比的であったからこそなのです。