こんにちは。ymtetcです。
ああ、『2202』は『さらば』のリメイクだったのかとようやく腑に落ちました。第25話ではなく最終話こそが、『さらば』のリメイクとして作られているのですね。もう少し整理して、今度ブログの方に書きます。
— ymtetc (@ymtetc) 2021年6月26日
今日はようやく、このツイートについて補足できそうです。
- 〇対比されている(かもしれない)セリフ
- 〇「福井版『さらば宇宙戦艦ヤマト』」の肝
- 〇福井さんの解釈を参考に対比してみる
- 〇『2202』最終話は『さらば』の……
- 〇なぜ「国民投票」でなければならなかったのか
〇対比されている(かもしれない)セリフ
芹沢「エネルギー、物資、軍事力。この先もなにひとつかけてはならない。それを支える物こそ時間断層です。(略)拙速な感情論に流されることなく、地球百年の大計を考え、責任ある大人としての判断を下されますことを、国民の皆様にはあらためてお願い申し上げます」
↓
真田「この愚かしい選択の先に、もう一度、本当の未来を取り戻せると信じるなら、ぜひ二人の救出に票を投じてください。数字や、効率を求める声に惑わされることなく、自分の心に従って」
(『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』シナリオより)
ズォーダー「どうだ、わかっただろう。宇宙の絶対者は唯一人、この全能なる私なのだ。命あるものはその血の一滴まで俺のものだ。宇宙は全て我が意志のままにある。私が宇宙の法だ、宇宙の秩序だ。よって当然、地球もこの私のものだ」
↓
古代「違う! 断じて違う! 宇宙は母なのだ。そこで生まれた生命は、全て平等でなければならない! それが宇宙の真理であり、宇宙の愛だ! お前は間違っている! それでは、宇宙の自由と平和を、消してしまうものなのだ! 俺たちは戦う! 断固として戦う!」
(『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』)
今回対比したいのは、このセリフです。
〇「福井版『さらば宇宙戦艦ヤマト』」の肝
この二つのセリフを対比するためには、まず福井さんによるガトランティスの解釈から話を起こさなければなりません。
福井 旧作におけるガトランティスというのは、そもそも人間として描こうという気がないというか、ある意味「力の象徴」として描かれています。それは、若者を抑圧する象徴であり、これから併呑(へいどん)していく社会の象徴でもあったわけです。
(略)
でも今、この作品を作ったり観たりする世代って、とっくの昔にもう併呑されてしまった世界の人間なんですよね。(略)そこで、そもそも彼ら(ガトランティス)の根本というのはなんだろうと突き詰めていくと、実は、人間であれば誰でもそういう方向に行きがちである、ということに行き着くんです。
『さらば』におけるガトランティスとは「力の象徴」であり、今の世代はガトランティス(のような発想を持つ社会)に「とっくの昔にもう併呑されている」……。
この福井解釈が正しいのかどうかは議論があるでしょう。しかし事実として、この解釈が「福井版『さらば宇宙戦艦ヤマト』」の肝になっていました。
〇福井さんの解釈を参考に対比してみる
福井さんの解釈に基づけば、『さらば』におけるズォーダーと古代の戦いは、すなわち
- 「力ある者が弱き者を屈伏させるのは当然」と語るズォーダー
- 宇宙の平和と自由のため、「生命はすべて平等である」と語る古代
の対決であったことが分かります。
一方、『2202』の最終話は
- 「たった二人の命より、多数の国益を優先するのが当然だ」と語る芹沢
- 「効率や数字、存在の価値によって命を選択する社会は間違っている」「どこにでもいる、ごく普通の人間の一人を救出すべきだ」と語る真田
の対決だと解釈することができます。
〇『2202』最終話は『さらば』の……
つまり、芹沢の演説が流れ、その直後に真田が語りだすあの一連の流れこそ、『さらば』における「力の象徴」と理想論の対決――ズォーダーと古代の対決――に相当するのではないかと私は考えます。
福井さんは『さらば』について、「『力』に対して『No!』と言った」物語であると語っていました。ガトランティスという「力の象徴」に「No!」を突きつける、そんな作品だと福井さんは解釈しているのです。
『2202』最終話で、真田は時間断層という「数字や、効率の象徴」に「No!」を突きつけました。これこそが、私が『2202』最終話を「福井版『さらば』」の肝であると考える所以です。
〇なぜ「国民投票」でなければならなかったのか
『さらば』で古代進は、自らの命を投げ出して地球を救い、ガトランティスを滅ぼして、己の信念を貫く戦いを演じました。自分の体が消えてしまっても、宇宙の平和と理想のために散ったヤマトと俺の戦いが記憶として残るのなら、それは死ではないからと……。全国の劇場を涙で包んだと言われるこの古代進の戦いは、『2202』ではどのように描かれたのでしょうか。
私は『さらば』における古代の戦いに相当する場面が、この最終話の「国民投票」であったと考えます。
先ほども言及したように、福井さんの解釈では、かつて古代が「No!」を突きつけたガトランティスの発想は、既に日本社会に浸透してしまっていることになります。福井さんがそう考えているからこそ、銀河のクルーはガトランティスのごとく人間性を否定している存在でしたし、地球連邦軍が無人艦隊を(ガトランティスのごとく)戦場へ投げ捨てるような場面も描かれたのです。
つまり、福井さんの発想ではガトランティスを滅ぼすだけでは不十分。日本社会に巣食う「ガトランティス的な発想」に「No!」を突きつけて初めて、旧作から40年経った日本社会に『さらば』を蘇らせることができる。そう考えたのでしょう。
だから『2202』では、「社会」が古代進を救わなければなりませんでした。「社会」が「数字や、効率」を否定しなければ、本当の意味で「ガトランティス」に「No!」を突きつけることができない。なぜならもう既に日本社会は「ガトランティス」になってしまったから……こういうことですね。
『さらば』が訴えていたものを「解体」し、時代的な違いを反映させた作品。
「『さらば』に触れた人」が、それを「もう一度体験する」作品。
「『さらば』のリメイク」を筆頭としたお題に100%答えた作品。
当時『さらば』を見た人たちが「どう感じたかということを今風に読み解いて」作った作品。
「自分たちの中の古代進と向き合って」、「意思疎通」する作品。
40年前と今の「違い」という「ストレス」を抱えている「あなたの物語」。
「40年前の旧作に対して、今の日本はどうなんだ」という作品。
『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』に対する(自分なりの)返答。
全て福井さんの言葉です。
「時間断層は必要だ」とする極めて合理的な思考と、「人間の命は助けなければならない」とする時に非合理的な人間性や道徳を天秤にかけ、社会は後者を選択する。
=『さらば』から40年経って、日本社会が内面化してしまった「ガトランティス」に、自らNoを突きつける。
こうして『2202』は、福井さんなりに『さらば』をリメイクしたのです。