ymtetcのブログ

偶数日に『宇宙戦艦ヤマト』を考えるブログです。

「本当のヤマトファン」

こんばんは。

昨晩の2202オールナイト上映で、第七章の冒頭10分が公開されました。

特番などで冒頭10分を公開していた頃のことを踏まえると、今日の夕方あたり、ネット上でも公開される可能性があります。あるいは、オールナイト上映参加者のプレミアム感を演出するため、少しもったいぶる可能性もありますが。

ただ、第七章へ向けたプロモーション上では「冒頭10分」「主題歌PV」「愛の宣伝会議」と、まだいくつか「弾」を残しています。その点から考えて、早々に冒頭10分がネット上で公開される可能性も少なくないと思います。

ちなみに当ブログでは、冒頭10分、主題歌PV、愛の宣伝会議までは取り扱います。先行上映には参加しませんので、取り上げません。

では今日は、昨日に引き続き、ある言論に対する違和感について考えてみたいと思います。

それが「本当のヤマトファン」という言葉です。

例えば、

  • 2202を批判するやつは本当のヤマトファンではない
  • 2202を批判しないやつは本当のヤマトファンではない

といった類のものです。

この論法は2202に肯定的な文脈と、否定的な文脈のどちらでも用いられています。よって、2202をどう捉えるかに関わらず、我々ヤマトファンが陥りやすい論法なのではないかと思われます。

この論法に対する違和感は、どうにも言語化が難しいと感じていまして、

以前の記事では「排外主義」と表現しましたが*1、あまりしっくりくる感じもしません。

ということで、この言語化は今後も行っていくものとしましょう。

今日は、少し違った角度から考えてみます。

「(条件+)本当のヤマトファンじゃない」という文の構造に注目します。するとこれは、「自分こそが本当のヤマトファンである」という自己弁護の裏返しに見えてくるのです。

というのも、「本当のヤマトファン」論法を用いる場合、「本当のヤマトファン」たる条件に含まれる属性は、発言者自身が備えていることの方が多いからです。

例えば「2202を批判するやつは」と条件を付した場合、発言者たるその人は2202を称賛していることの方が多く、「2202を批判しないやつは」とした場合、その人は2202を批判していることが多いというわけです。

当たり前のことのようですが、注目すべきだと考えます。

これは、自分の感性と異なる感性を持った人を目の前にして、自分こそが正しいと確認する為に他者に「本物ではない」というレッテルを貼る――自己の正当化なのではないでしょうか。

ごくごく当たり前のことですが、自分の属性が「ファン」であるかどうかは、あくまで自分自身の主観、自己認識に基づいて決定するものであって、客観的な基準があるわけでも、特定の誰かから与えられる称号でもありません。

特に『宇宙戦艦ヤマト』の場合、『機動戦士ガンダム』など他のシリーズ作品と同様、個別の作品、個別のスタッフなど、個別の要素で決定されるのではなく、あくまで総体としての『宇宙戦艦ヤマト』を、自分がどう認識しているかの問題です。

自分が「ヤマトファン」であるかどうかは、自分に訊けば分かるでしょう。

自己弁護は、必ずしも必要ではないのです。