こんばんは。ymtetcです。
私には一つの悩みがあります。それが「2202と副監督の分離」です。
例えば2202を褒める記事をいくつか書きましたが*1、それと同じだけの熱量で副監督を褒めることはできませんし、
あるいは副監督を批判する記事をいくつか書きましたが*2、それと同じだけの熱量で2202を批判することもできないのです。その結果「副監督を批判しながら2202を褒める」なんていう奇妙な記事も生まれました*3。
この微妙な揺れ動きを自分自身、どう整理すべきなのか?
そこで、「箱推し」という概念を取り入れてみることにしました。
先日の記事で*4、「もともと、私は『ヤマト2202』という箱に対してはどちらかと言えば好意を抱いているので」と述べ、「箱」を強調する表現を使ったのも、そのためです。
では、「箱推し」とは何か。
元々は、それぞれの劇場(「箱」)を有するアイドルグループを、グループ単位で「推す」という意味をもっていたようです。それが転じて、今ではアイドルグループをグループ単位で推すという、より一般化された概念になったわけですね*5。
「箱推し」がある以上「推し」があるわけですが、例えば「単推し」など、個別のメンバーを推す、という概念も存在します。
この「推し」という概念、好き嫌いを規定するというよりは「より好き」なものを規定する概念です。では「嫌い」を規定する概念には一体何があるのか。
ここでは、「地雷」の概念を挙げておきたいと思います。
「地雷」は、自分が関わりたくないもの、関わったら不愉快な気持ちになるものを規定する用語です。
これら3つの用語を併せますと、まず「箱」があり、その中に「推し」があり、一方でその中に「地雷」もある、という感じになるでしょうか。
この考え方を、どうにかして私に当てはめてみました。
私は、ヤマト2202という「箱」は推したいし、ある程度は推せる。この感情の発露が、2202を褒める記事である。
しかし、その「箱」の中に副監督(とそのメカ)という「地雷」があって、どうにも邪魔が入ったような感覚を覚える。だから、どうにかしてそれを除去、あるいは「地雷」によって被る被害を(自分自身の中で)軽減させたい。この感情の発露が副監督を批判する記事である。
という感じで。まだ何とも違和感は拭えないのですが、こうすると、私としては何だか整理されたような気持ちになりました。
さて、この考え方、ヤマト2202を批判しながら「ヤマトファン」であるという人にも使えると思っています。
『宇宙戦艦ヤマト』というシリーズを「箱」、ヤマト2202を「地雷」と位置づけてみてください。「箱」と「推し」と「地雷」が、何となく整理されてくるはずです。
作品を一括りにして「推し」「地雷」に分けてしまうと、作品内の個別の優点と欠点がぼやけてしまい、却って良いことにはならないので私はあまり好きではないのですが、感情を整理する上では役に立つと思います。
*1:【ヤマト2202】第六章はいかにして「ヤマト映画」となったか その3 - ymtetcのブログ
*2:【ヤマト2202】第二次改装、誰がこれを許したのか【第六章特製スリーブ・イラスト】 - ymtetcのブログ
*3:【ヤマト2202】アンドロメダ改「公式が間違い」問題について【副監督】 - ymtetcのブログ
*4:【ヤマト2202】ある擁護意見に対する違和感 - ymtetcのブログ
*5:この「箱推し」あるいは「推し」という概念には非常にデリケートな問題を伴うため、あまり深入りはしたくありませんが……