ymtetcのブログ

偶数日に『宇宙戦艦ヤマト』を考えるブログです。

「劇場の空気」を語ろうとする意見について

こんばんは。ymtetcです。

レビューやツイートなどを読んでいますと、皆様それぞれの意見があって大変素晴らしいのですが、一方で違和感を覚えるものもあります。

それが、「劇場の空気」を語ろうとする意見です。例えば、

  • 感動した! 周りの人間も泣いていた! 上映後は自然と拍手が沸き起こった!

あるいは、

  • 駄作だった! 上映後はみんな沈痛な面持ちで劇場から出ていった!

といった意見。なんと不思議なことに、ヤマト2202ではこの両方の意見が見られます。

この意見に対して、私が違和感を覚える理由は何でしょうか。

それは、他者の気持ちなど理解できるわけがないのに、勝手に代弁しているからです。

さらば宇宙戦艦ヤマト』の公開時、映画が終盤に入ると、劇場内はすすり泣きでいっぱいだったとよく言われます。それは事実でしょう。多くの人が泣いていた。

しかし、彼らが泣いていた理由は、必ずしも一つではありません。悲しくて泣いた、感動して泣いた、よく分からないけど泣いた──ここで私が想像するだけでは物足りないほど、沢山の、一人一人の理由があって泣いていたはずです(もちろん、泣いていない人も──)。

さらば宇宙戦艦ヤマト』は長年、歴史に残る感動作として語られてきましたが、決して当時は感動一色の涙ではありませんでした。劇場を涙で包んだ同じ仲間でも、悲しくて泣いている人には感動して泣いている人の気持ちは分かりませんし、感動して泣いている人には悲しくて泣いている人の気持ちは分かりません。

「涙」という分かりやすい感情の表出があっても、全員が同じ気持ちではないのです。

「涙を流している」という事実を通じてさえ、他者の気持ちを完璧に汲み取ることはできないのに……。まして、それすらも表出させていない他者の気持ちを読み取ることができるはずがありません。

 

「上映後は自然と拍手が沸き起こった」?

拍手をしていた人は、あなたの周囲のわずか数人かもしれない。同じ劇場にいた人が、「上映後にどこかから拍手が聞こえてたけど誰もそれに乗らずにすぐ沈静化してワロタwww」などとツイートしているかもしれない。

「上映後はみんな沈痛な面持ちで劇場から出ていった」?

沈痛だったのは、あなただけかもしれない。感動を噛み締めて、作品が完結してしまった寂しさに逆らうように、余韻を惜しんでゆっくりと歩いていたのかもしれない。

 

それは、本人にしか分からないのです。