ymtetcのブログ

偶数日に『宇宙戦艦ヤマト』を考えるブログです。

『ヤマト2202』をどう見るべきか

こんにちは。ymtetcです。

先日、ツイッターの一部で「好意的解釈」に関する議論が起きていまして。

その中で、私にとっては耳の痛い意見がありました。

グサッ、という音がしますね(自分から)。

こちらのツイートも、核心を突いておられます。

 こちらなんて、まさに。

心が折れそうになりますね。

さて、ここに至って私は自分のブログを好意的に再解釈する必要に迫られました。

ただこの議論のなかで「でるた (@delta0401)」様が一つ大きなヒントをくださっておりまして、

それがこの「階層の違う話」という表現です。

それでは、以下に私は自分のブログを好意的に再解釈してみたいと思います。

 

ここで改めて立ち返りたいのが、過去記事「福井晴敏の『ヤマト2202』語り パート1 - ymtetcのブログ」で提起した、『ヤマト2202』に関する5つの分析レベルです。

  1. 「企画メモ」レベルでの議論:「愛をテーマに『さらば』をリメイクする」という理念そのもの段階の是非を問う
  2. 「構成メモ」レベルでの議論:「上記の理念に基づいて全7章26話を作る」というシリーズ全体の構想段階の是非を問う
  3. 「シナリオ」レベルでの議論:「シリーズ全体の構想に基づいて各話20分の物語を作る」というシリーズ各話の構想段階の是非を問う
  4. 「絵コンテ」レベルでの議論:「シナリオから各話20分のアニメ作品を作る」という映像化構想段階の是非を問う(例:デザインなどのビジュアル構成も含む)
  5. 「本編」レベルでの議論:「絵コンテから各話20分のアニメ映像を作る」という映像具体化段階の是非を問う(例:作画のクオリティなど)

この5つの枠組みを見渡してみた時に言えるのが、これこそが「階層の違い」なのではないか、ということです。

まず、「物語としての質」を問うのが2番目、あるいは3番目の議論で、こちらは物語としての「技巧」、あるいは「面白いか、面白くないか」を論じる話になります。

そして、「映像作品としての質」を問うのが4番目、あるいは5番目の議論で、こちらは映像作品としての「技巧」、あるいは「面白いか、面白くないか」の話になります。

 

もう少し考えてみます。

『ヤマト2202』は映像作品ですから、最終的に評価すべきは「映像作品としての質」です。すなわち、『ヤマト2202』そのものの評価は基本的には5番目「本編」レベルでの評価を変動させるべきではありません。

例えば私は最終章を劇場で観て、「5段階中の4」という評定を自分なりに下しました*1。フィルマークスでは平均3.5*2Yahoo!映画では平均2.5という評価が下されているわけですが*3、いかなる「作品の意義」や気づきが「シナリオ」や「構成メモ」から出てきたとしても、この評価は変動させるべきではありません。そして、変動させようとしてもいけません。

それが、映像作品としての『ヤマト2202』の「質」への評価だからですね。

 

ただ、こうしてみると、「私⇔『ヤマト2202』」間の関わり合いが極めて複雑に入り組んでいることにも気づきます。

そもそも、私は『ヤマト2202』の最終章を平均よりも高く評価しています。

私の評価は「5段階中の4」。平均より0.5~1.5程度、高く評価しているわけですよ。

ただこの「平均よりも高く」というところがミソで、実のところ私は正直、『ヤマト2202』が質の高い映像作品とは思っていません。

思っていませんが、劇場で観た時、なぜか、やたらに感動を覚えた。それは、ひとまず本作に5点満点を差し上げたい程度には、です*4。私の『ヤマト2202』との関わり合いの出発点は、この妙な矛盾にあります。

この「なぜか」という点がこれまたミソです。要は、私は自分がなぜ感動を覚えたのかよく分かっていなかったわけですね。

ですから、「なぜ自分が感動したのか」を解き明かすためにシナリオを読む、という作業をしなければなりませんでした*5

これだけなら単純な話ですが、私が常に「自分が本編で感動した理由」を解き明かすために『シナリオ編』を読んでいるかというと、そうではありません。むしろ、そうではないことの方が多いと言ってもいいでしょう。

 

なぜなら私は、『ヤマト2202』のシナリオを読み物として本編よりも遥かに高く評価しているからです。『シナリオ編』についてはかなりの割合「面白い!」と感じています。

ですから、今まで私が「ヤマト2202シナリオ」のカテゴリーで書いてきた記事は、結構な割合で

『シナリオ編』を読む⇒「面白い!」と思う⇒「なぜ?」を考える⇒記事を書く⇒最後に本編の出来へのお小言を添える。

といったスタンスで書いています。

このように『シナリオ編』ひとつ取り上げるだけでも、本編を高く評価している時としていない時がある。私のスタンスや論調が、実は微妙に異なっているんです。

 

さて、さらにお話は入り組んでいきます。

上述の矛盾した『ヤマト2202』観に加えて、私は福井晴敏×『宇宙戦艦ヤマト』」というコラボレーションに「意義」を見出しています。5つの分析枠組みで言えば、1番目の「企画メモ」レベルです。

福井晴敏×『宇宙戦艦ヤマト』」の意義はこれまでも何度か語ってきました。宇宙戦艦ヤマト』及びそのファンにとって福井晴敏(『2202』シリーズ構成)とは、出渕裕(『2199』シリーズ構成)以上の「他者」である。それ故、『宇宙戦艦ヤマト』は『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』を通じて、「他者」の目から見た自分自身の姿を知ることになる、と。

要は『2199』までは自己分析的だったものが、『2202』では「他己分析」的になる、ということです。ヤマトファンにとっては「こちら側」だった出渕さんに代わって、「富野由悠季側」の福井さんが乗り込んでくる*6

実験としては面白いですし、実際に『2202』は、これからの『宇宙戦艦ヤマト』を考える上での重要な、たくさんの経験を残してくれたと考えています。

この考え方の上では、福井晴敏が『宇宙戦艦ヤマト』で何をしようとしたのか、それ自体が大きな価値を持つことになります。すなわち、冒頭に引用したツイートの表現を用いれば、『2202』に込められた「題材」それ自体が「意義」を持ちます

ですが、ツイートの主張を援用すれば、「題材」や「意義」は「作品の質」とは関係がありません。「作品の質」を決めるのは「技巧」であり「面白い」か「面白くない」かであり、つまるところ、「題材」を「出来上がった作品」の中で「描けて」いるかどうかです。

 

私は恐らく「『2202』の擁護者」のように皆さまからは見えていると思いますが、どういう観点からどう『2202』を評価するか、というスタンスは、実は統一されていませんでした。

そして、そのことに私自身、これまで気付いていませんでした。これまで書いてきたものは、ともすればこれらの三つの視点がごちゃ混ぜになっていたのかもしれません。

ですから、最も大切なのは、

  • 「映像作品としての『ヤマト2202』を、決して高く評価している訳ではないけれど平均よりは高く評価しているymtetc」
  • 「『ヤマト2202』のシナリオを、『シナリオ編』(あるいは小説版)を介して読み物として(本編よりも遥かに)高く評価しているymtetc」
  • 「『ヤマト2202』あるいはそれに続く『ヤマト2205』における、福井晴敏と『宇宙戦艦ヤマト』のコラボレーションに意義があると考えているymtetc」

この三人の「ymtetc」を、明確に分離して考えることなんだと思います。

そして、この三人の「ymtetc」は相互に干渉してはいけない。これを大原則として守っていくことも大切でしょう。

シナリオが読み物として面白いからといって映像作品としての評価を上げてはいけないし、福井晴敏が『宇宙戦艦ヤマト』をやることに意味があると思ったからといって映像作品としての評価を上げてはいけない。こういうことですね。

この三人の「ymtetc」を分離させることで、「意義」への評価と「質」への評価、あるいは「題材」への評価と「技法」への評価をきちんと区別することができそうです。

*1:【ネタバレ含】ヤマト2202『新星篇』の「+5」ポイント - ymtetcのブログ

*2:宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち 第七章 新星篇<最終章> - 映画情報・レビュー・評価・あらすじ・動画配信 | Filmarks映画

*3:宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち/第七章 新星篇 - 作品 - Yahoo!映画

*4:そこから減点法で評価し、4/5となりました「 【ネタバレ含】ヤマト2202『新星篇』の「-1」ポイント - ymtetcのブログ」」。

*5:例えば私は『2202』のラストシーンが「なぜか」好きだったので、その理由を考えて「【ヤマト2202】最終話は絶対に必要なんです - ymtetcのブログ」を書きました。

*6:出渕さんは「こちら側」であるが故に愛憎入り交じった複雑な評価を受け、福井さんは「他者」であるが故にリスペクトと批判の入り交じった複雑な評価を受けたと考えます。