タイトル「【ヤマト2202】最終話、古代はなぜ雪の手を取らなかったのか? 第2話と最終話の対比から」
こんにちは。ymtetcです。
本論
『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』の最終話には、こんなシーンがありました。
雪:古代君……古代君! こっちへ!
古代:雪……ダメだ、ダメなんだよ。どんなに探しても見つからないんだ。引き金を引いて、失い続ける未来しか、俺たちには……
雪:ダメ!
古代:もう失いたくない。このまま……
雪:私だって、失いたくない……古代君! 古代……君……!
雪:(意を決して)
雪:古代進は、地球を救ったぞー! これまでも、これからも……何度だって救うぞ! どんなにボロボロになっても!
古代:(雪を振り返り)
雪:いつだって、森雪が一緒にいるから!
古代:(雪の手を取ろうとして、ためらう)
雪:(ショックを受けて)
古代:……(自分の手を掴む何かに気づき)!
雪:……(それが何かが分かり、微笑んで)!
テレサ:それも、未来のひとつ。あなたを待っている、たった一つの。
古代:未来……。
雪:(頷く)
古代:(雪の手を取り)
ミルの声:未来が、繋がった。
サーベラーの声:いつかは滅ぶ未来。宇宙はその熱を使い切れば、冷えかたまって死に絶えるものだから。でも、それだけじゃない……!
(重々しい音が鳴り響く)
古代:……(見慣れたその姿に気づき)!
少しだけ、その後のシーンまでをも書き出してみました。
この最終話は脚本チームの筋金入りということもあって、また『2202』監督の噂もあったアミノテツロさんが絵コンテ、そして『2202』監督の羽原信義さんが演出ということもあって、『2202』の中では比較的、物語の構成も演出も洗練されている回だと私は考えています。
ただ、私が公開時から気になっているシーンがありました。それが今日のタイトルになっている、そして引用文で下線が引かれている場面です。
今回の引用は『シナリオ編』ではなく、本編を私が解釈して抜き出したものになっています。
「古代進は地球を救ったぞ」という雪のセリフの前に、私は「(意を決して)」と添えました。というのも、落ち込んでいる人間(特に、ここでの古代君ほどに落ち込んでいる人間)へ声をかけるのは、とても勇気と決断力がいることだと考えているからです。古代は事実上の自殺をした直後ですから、もう行く所まで行ってしまっている。これを救い出すための言葉なんて、そう簡単に見つかるはずありません。そんな状況からある意味「救い出したい」側の雪の言葉は、とてもとても重みのあるものだと思います。
で、実際古代君の心は多少動いたのか、雪の手を取ろうと手を伸ばしました。
ところが、すぐに古代君はためらい、手を下ろしてしまう。
これ、私が雪の立場だったらそうそう立ち直れません(笑)。
「あなたは地球を救った。これからも何度だって地球を救う。どんなにボロボロになってもいい。いつでも私が一緒にいるから」。
これ以上の言葉はなかなかないと思います。雪は、古代君がこれまで生きてきてやってきたことを肯定して、これからやるであろうことも肯定しているわけですよ。そして、どんなに落ち込んでもどんなに傷ついても自分が一緒にいる、だから、生きて……と。
ここまで言って戻ってこないなら、自分には古代君を支える力がないんじゃないか。
私ならそう考えます。
ですから正直このシーンは、『2202』のテーマとかそういう高尚なものを抜きにして、初見の時には結構傷ついたものです。
なぜ古代君は、雪の手を取ってはくれなかったのか?
その理由を考える手がかりをくれたのが、前回取り上げた「『愛』と『理想』の二項対立」でした。
そもそも、最終話のこのシーンは(回収できたのは偶然らしいですが)「古代進は地球を救ったぞ」というセリフから、第2話と対置されるものとして解釈されてきました。
その上で私は、第2話と対置するのであれば別の視点からも可能なのではないかと考えています。
雪:古代進は、地球を救ったぞー! これまでも、これからも……何度だって救うぞ! どんなにボロボロになっても!
古代:(雪を振り返り)
雪:いつだって、森雪が一緒にいるから!
古代:(雪の手を取ろうとして、ためらう)
雪:(ショックを受けて)
最終話のこれと、
古代「必要なのは、この四年の思い出だろ?」
椅子に座り直し、テーブルの上の雪の手をそっと握る古代。
古代「イスカンダルへの大航海と、その後の三年間……楽じゃなかったよな。いまだって、楽だとは言えない。でも、おれたちは生きてる」
(略)
古代「前だけを見ていこう。きっと幸せになれる。そうする義務が、生き残ったおれたちには――」
雪「古代くん」
古代の手を握り返す雪。
雪「私、とっくに幸せだよ?」
テーブルの上で絡まり合う、婚約指輪をはめた二人の手。
(「『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』第二話『緊迫・月面大使館に潜行せよ(仮)』第二稿」『シナリオ編』15頁、下線はymtetc)
第2話のこのシーンですね。第2話では手を握ったけれど、最終話では握らない。対照的です。
「理想」に着目すると、第2話と最終話の状況は、実はよく似ています。どちらの場面でも、古代の「理想」が強く否定されているからです。
古代進の「理想」とは何か? ひとつに、波動砲と相互理解がありました。
その意味で、実は第2話の時点で古代の「理想」は「現実」によって否定されています*1。古代進の心は、この時点で折れていてもおかしくはない。
でも、古代進は心が折れているどころか、「前だけを見ていこう。きっと幸せになれる」。と言います。
けっこう前向きですよね(笑)。
次の問いに進みましょう。ではなぜ、この時古代は前向きでいられたのか?
それはたぶん、雪がいるからです。
いえ、厳密に言えば、
雪を「愛」している自分を肯定できているからだと思います。ここに、第2話と最終話の決定的な違いがあると考えます。
ヤマトが地球に帰還してからの3年間、古代は自分の「理想」を否定されてきました。沖田艦長とスターシャの約束は反故にされ、友情という純粋なものでもあったガミラスとの繋がりは、国益を守るための「同盟」に昇華され、地球を新たな戦争へと駆り立てている。「楽じゃなかった」のは間違いありません。
それでもまだ、古代は自分が生きていること、自分が幸せになるということに希望を抱いていられた。それは、目の前に愛する雪がいるからでしょう。どんなに苦しいことがあっても、雪とともに生きていくことができれば、きっと幸せになれる。まだこの時はそう思えていたはずです。
そんな「愛」を否定していったのが、ズォーダーでした。
古代は「愛」ゆえに、誰を殺して誰を生かすのかを決めてしまった。これに加えて事故とはいえ、愛していたはずの雪は記憶を失って他人のようになってしまった。
加藤、ゼムリア人、ズォーダー。人間は誰しも、「愛」ゆえに自分を裏切ってきた。きっとこれからも、人間はそれを繰り返し続ける。
こんな事実を突きつけられた古代は、雪を「愛」せなくなってゆきました。
決して雪への「愛」がなくなったわけではありません。雪を「愛」しているその気持ちは一ミリたりとも変わっていないでしょう。ただ……
雪を「愛」している自分を、肯定できなくなっている。
それ故に、古代は最終話、雪の手を取ることができなかった。
私はそう考えます。
そんな古代も、最後は雪の手を取ります。
それは、自分と雪の子どもという「未来」を見たからです。
福井さんはこの「未来」について、古代が見たものに限らない、と強調します。子どもが生まれることこそが希望だ、という一面的な主張ではないと言いたかったのでしょう。
ではなぜ、古代は自分の子どもを見て雪の手を取ったのか?
それは古代にとって子どもが、雪を「愛」し続けた「未来」にある「明日への希望」だからです。
もちろん、子どもを生み育てることが男女の「愛」の至上の「未来」ではありません。それだけが人間の「愛」の形ではありませんし、そうではないからといって不幸ということにはならない。子どもを生み育てるという「幸せ」は、現代においてはかなり相対化されてきたものだと言えます。
ですが今も、世界中の人間が描く「幸せな未来」の一つであることには変わりありません。多少違和感を覚える人がいるのも覚悟した上で、福井さんはその普遍性に賭けたと言えそうです。
おわりに
今回考えてみた問いは、二つありました。
- 最終話で古代はなぜ雪の手を取らなかったのか?
- 古代はなぜ、自分の子どもの姿を見て雪の手を取ったのか?
メインとなっているのは一番目の問いで、二番目の問いは一番目の問いのおまけでした。
最終話で古代が雪の手を取らなかった理由。それを解き明かすヒントは第2話にありました。第2話で、古代はしかと雪の手を取っていたのです。
第2話と最終話には、どちらも古代の「理想」が否定されている状況だった、という共通点がありました。第2話も最終話も、古代にとっては非常に苦しい状況だったのです。
一方で最終話には、古代は自分の「愛」を肯定できないでいる、という第2話との相違点がありました。それは『2202』で描かれた、ズォーダーとの戦いを経た結果です。
そうして古代は、雪を「愛」する自分を肯定できていませんでした。その結果、古代は雪の手を取ることができなかったと考えます。
それでも最終的に、古代は雪の手を取ります。それは恐らく、自分の子どもという「未来」(=「明日への希望」)を見たからなのでしょう。
古代がその「未来」を見て、雪の手を取った理由。それは古代にとって子どもが、雪を「愛」し続けた「未来」にある幸せの一つだったから、と私は考えます。
このように、古代自身が「愛」をどう捉えているかに着目して『2202』を読み解いていくことも可能だと考えます。
ただ、まだまだ未解明の部分がたくさんあります。思うに過去記事と矛盾する記述も、今回いくつかあったのではないでしょうか。
『2202』は「愛の再定義」を掲げているだけあって、「愛」という言葉の使い方が複雑になっています。「大きな破綻を回避するために大変だった」と福井さんは言っていましたが、「愛」という言葉の認識をスタッフ間で共有するだけでも、かなり大変な作業だったことでしょうね。