ymtetcのブログ

偶数日に『宇宙戦艦ヤマト』を考えるブログです。

【ヤマト2202】『さらば』リスペクトと否定

こんにちは。ymtetcです。

前回の記事では、『2202』ラストの「国民投票」は、『さらば』のラストで描かれた「古代進の死」が、その後の世界(現実世界を生きる観客)にどのような影響を与えたか?を問いかける「粋」なアイデアであった一方、『さらば』のラストの解釈を”福井晴敏”色に規定してしまう点で「無粋」なアイデアでもあったと述べました。

今日は、そんな『2202』が持っていた『さらば』へのリスペクトと、作品全体に流れていた『さらば』否定のお話です。

福井さんは『ヤマト2202』について、以下のように説明しています。

・『さらば』が訴えていたものを「解体」し、時代的な違いを反映させた作品。
・「『さらば』に触れた人」が、それを「もう一度体験する」作品。
・当時『さらば』を見た人たちが「どう感じたかということを今風に読み解いて」作った作品。
・「自分たちの中の古代進と向き合って」「意思疎通」する作品。
・40年前と今の「違い」という「ストレス」を抱えている「あなたの物語」。
・「40年前の旧作に対して、今の日本はどうなんだ」という作品。

ここから読み取れるのは、『ヤマト2202』とは、「『さらば』の追体験であり、「『さらば』の問い直し」であることです。

事実、福井さんは「『さらば』の追体験」に力を注いでいます。真田に相当する古代進の”喪失”を務める役としてキーマンを育て、「森雪の死」に相当する要素は「恋人としての森雪の死」として、記憶喪失設定を絡めて描きました。「『さらば』の追体験」に力を注いだ点では、『2202』のプロットは、『さらば』を丁寧にリメイクしたシナリオだったと言えます。

 

一方、「『さらば』の問い直し」に関しては、『2202』は大胆な改変を行っています。それがズォーダーとガトランティスです。

ズォーダーが作品を通じておこなったことは、「愛」を持つ人間と、その行動を否定すること。

言い換えれば、ズォーダーが否定したのは「『さらば』ラストシーンにおける古代進の行動」そのもの。その行動の虚しさを解き続けたのがズォーダーだと言えます。

その意味で『2202』という作品は、最終話の真田の演説の前までは、「『さらば』のラストシーン」に対して、一定程度、否定的なスタンスをとっていた作品なのです。

 

では『2202』は、なぜそんな改変を行ったのか。

それは作り手が「『さらば』から40年が経って、日本社会は『さらば』のラストシーンを肯定できなくなった」と考えていたからです。

そこで『2202』は、「『さらば』のラストシーンを肯定できない人々」の心をズォーダーに託し、シリーズのヴィランに据えたのでしょう。そんなズォーダーと同じ思想に傾いていく終盤の地球や銀河のクルーたちも、そこに託されているのは「『さらば』のラストシーンを肯定できない人々」の心です。

 

『2202』を通じて『さらば』のファンが居心地の悪さを感じていたならば、その一因がここにあるのではないでしょうか。

一方、第六章第21話の土方の語りや、最終話での真田の語り、浮上するヤマトの姿に心を動かされたファンがいるとすれば、この(「『さらば』を肯定できない人々の心」を克服し、再び「『さらば』のラストシーン」を肯定できるようになることを目指した)『2202』のプロット設計が"ハマった"からだと考えます。