ymtetcのブログ

偶数日に『宇宙戦艦ヤマト』を考えるブログです。

『ヤマト2202』に引き継がれた旧『ヤマト』第13話

こんにちは。ymtetcです。

前回の記事では、『さらば』クライマックスにおける古代進の言葉は、第一作『ヤマト』の第13話、そして第24話から連なるものだと述べました。『さらば』クライマックスの古代の胸にあるのは、「命の大事さ」を理解しようとしない「理不尽な暴力」に対する怒りと、「喪失」の悲しみです。

この怒りと悲しみを克服する手段として、古代は死を選び、自らの理想を全うしたのが、『さらば』のラストだったと言えそうです。

さて、『さらば』のリメイクとして構想された『ヤマト2202』も、概ね同じ手法で読み解くことができます。『ヤマト2202』の古代は、なぜ自ら死を選び、高次元空間から帰ってこようとしなかったのか。

旧『ヤマト』第13話を(結果的に)追体験した『2202』

『2202』の前作である『2199』には、古代進に限っていえば、旧『ヤマト』第13話に相当する回がありません。第14話で古代が両親を失う場面は示唆されるのですが、「貴様も人間なら、命の大事さを知れ」に相当する場面はなく、ドラマとしては骨抜きにされていると思います。

さて、次作である『2202』がそれを意識していたとは思えませんが、しかし結果的に、『2202』は「貴様も人間なら、命の大事さを知れ」と同じような要素を回収していると考えます。

それが、ズォーダーとの和解にこだわり続ける古代の姿です。

古代は「人間」への期待と信頼を抱く

「貴様も人間なら、命の大事さを知れ」。このセリフの後ろには「人間は『命の大事さ』を知るものである」との認識があります。さらに解釈を広げれば、これは「『命の大事さ』を知っているだろう」という期待であり、「知っているに違いない」という信頼でもあります。

『2202』において、古代はガトランティスによる「理不尽な暴力」の数々を目にしてきました。ズォーダーの「理不尽」な様は、旧作以上に体験してきたのが『2202』の古代だと思います。

しかし古代は、ズォーダーもまた人間であると知るや、和解の道はないかと探り始めます。そして第25話で決裂するまで、古代はひたすらに、ズォーダーとの和解にこだわり続けます。

第20話で、ズォーダーもまた「人間」であると知った時、あるいは旧作の古代ならば、「貴様も人間なら」との気持ちを抱いたかもしれません。

『2202』古代が死を選んだ理由

この流れの上に立つ『2202』第25話のラストは、旧作『さらば』とは少し趣が異なります。『さらば』における古代の「死」は、理想に殉ずる、ややもすれば”前向き”なものであったのに対して、『2202』における古代の「死」は、少しネガティブな雰囲気が漂っています。

この新旧の違いは、いったい何なのか。

私は、『2202』の古代が「死」を選んだ理由はただ一点、「悲しみ」であったと考えます。『さらば』の古代が「怒り」や「使命感」による行動であったのに対して、『2202』は、ただ「喪失」の「悲しみ」ゆえに、古代が死を選んだと言えるのではないでしょうか。

『2202』の古代も、旧作同様に「喪失」を重ねてきました。ヤマトクルーの仲間たち、”恋人”としての森雪。そしてとどめに古代は、最後まで和解を信じてやまなかった、ズォーダーを失いました。古代の「人間」への期待と信頼は失われ、そこにはただ「喪失の悲しみ」が残りました。

だから古代は静かに、「食い止める術は、もうない」と呟いたのです。

最終話の前振りゆえに

この『2202』と『さらば』の微妙な違いが生まれたのは、『2202』が、第25話における古代の死にピークを持ってくるのではなく、第26話におけるラストシーン、すなわち高次元空間で「生きること」を選んだ古代のもとにヤマトが浮上する、あのシーンにピークを持ってきているからです。

『さらば』の象徴的なシーンを描きながら、シナリオ上、最も盛り上がるポイントは敢えてずらしてある。この辺りは、リメイクの手法として興味深いですね。