ymtetcのブログ

偶数日に『宇宙戦艦ヤマト』を考えるブログです。

『2202』最終話の『ヤマト』シリーズにおける斬新さ

こんにちは。ymtetcです。

今日は、ここ最近活発に取り上げている「地球人類を救う」ヤマトらしさを踏まえて、『ヤマト2202』の話をしていきたいと思います。

『2202』は、第25話に旧『さらば』のラストを配置し、最終話にあたる第26話では、全くの新作ドラマをエピローグ風に配置していましたそれはこれまでの『宇宙戦艦ヤマト』にはなかった、シリーズにとっては斬新な構成だったと言えます。

では、なぜ『2202』のラストは、これまでの『ヤマト』にないラストだったと言えるのでしょうか?

〇「地球人類を救う」では完結しない

それは、『ヤマト』本来のゴール(目的)である「地球人類を救う」ことをドラマのクライマックスにはせず、クライマックスそのものを「地球人類を救った」後にずらす構成だったからです。

言い換えるなら、『2202』の物語は「地球人類を救う」ことでは完結しませんでした。それこそが、これまでの『ヤマト』にはない、斬新な構成だったと言えるのです。

〇「地球人類を救う」で完結してきた『ヤマト』

これまでの『ヤマト』は、「ヤマトが人類を救う」ことに対する障害を排除することで、物語を完結させる構造をとっていました。

第一作であれば放射能汚染、第二作はガトランティス、第三作は重核子爆弾とデザリアム、第四作は太陽の異常暴走、第五作はアクエリアス、第六作は移動性ブラックホール

これらの問題を宇宙戦艦ヤマトとその乗組員が解決することで、物語はハッピーエンドを迎える。それが、これまでの『ヤマト』でした。

〇「古代進が生きる」で完結した『2202』

一方『2202』は、第25話でガトランティスを排除しただけでは、物語で描かれていた全ての問題が解決しないように設計されていました。古代進が自ら命を絶った。その問題を解決しなければ、『2202』は完結しないように構成されていたのです。

古代進がこれからも現実世界で生き続けると決める」ことを物語のゴールとして設定する。そんな発想は、今までの『ヤマト』にはなかったものでした。

これは、『ヤマト』においては「古代進の物語」が大切だ、とする福井晴敏さんの『ヤマト』観を強く反映したものであると同時に、福井さんによる、旧『さらば』のラストシーンに対する「あれでいいの?」という問いかけでもありました。

〇リメイクならではの技法

『2202』は、「地球人類を救う」ことによってドラマが幕を閉じる従来の『ヤマト』の結末を、「古代進の物語」におけるクライマックスの前振りとして用いました。それは旧作を知るファンにとってはある種のどんでん返し的な発想で、旧作の結末を誰しもが知っている、リメイクならではの技法とも言えます。

それだけに、『2202』の結末を「ヤマトらしくない」と感じた方がいたとすれば、それは極めて当然の反応だったように思います。分かりやすい部分で言えば、「地球人類を救う」ことを物語のクライマックスにしなかったことによって、『2202』はヤマトから「地球人類を救うヒーロー」としての役割を削ぎ落としてしまったわけです。

とはいえ、『2202』におけるヤマトの扱いが必ずしも「ヤマトらしくない」ものだったかと言えば、そうでもないと私は思います。『2202』は、「古代進を救い出す」という人間性に満ちた存在として、ヤマトの姿を描くことに成功していたからです。人間性に満ちた存在としてのヤマト像は、旧作の『完結編』などに通じるもの。『2199』ではコスモリバースシステムを介して艦に魂を宿す、という回り道な展開をやりましたが、『2202』は『2202』なりのやり方で、ヤマトという軍艦に人間性を宿すことに成功したと言えるでしょう。

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