ymtetcのブログ

偶数日に『宇宙戦艦ヤマト』を考えるブログです。

リメイク版と「宇宙平和の使者」

こんにちは。ymtetcです。

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今日も、ここ数回取り上げている「人類最後の希望」と「宇宙平和の使者」について、考えていきます。今日は、リメイクシリーズに注目します。

『2199』と『2202』もまた、「人類最後の希望」としての宇宙戦艦ヤマトが、次第に「宇宙平和の使者」に転じていく、旧作の流れを踏襲したと考えます。

『2199』は原作と同じ、地球滅亡の危機から物語をスタートさせました。この時、ヤマトは「人類最後の希望」でした。しかし道中、主人公の古代進は、ガミラス人・メルダと出会い、「相互理解」への手ごたえを得ます。そして、その手ごたえは、イスカンダル到達後の兄・古代守の言葉によって信念へと変わっていきます。

ガミラス本土決戦を旧作通りには描かなかったとはいえ、『2199』も旧作通り、単に地球人類を守るために戦ってきたヤマトが、次第に汎宇宙的な平和のために戦う視点を持ち始めるという、一連の流れを描いたと考えます。

一方『2202』は、「相互理解」といった古代進の信念が否定されるところからスタートしました。本編は十分に表現できていなかったのですが、これまでこのブログで見てきたように、『2202』には「相互理解」に対するアンチテーゼを描こうとした形跡が残されていました。

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すなわち、波動砲艦隊構想は異星人に対する不信感の象徴であり、「理解し合える」とした古代進の理想とは大いに反したわけです。ですがそうした「不信」、言い換えれば”常に最悪の事態を想定する”ことは、現実においては必要なこと。古代は理想と現実の狭間で苦しみ、どんな手段を使っても理解し合えなかったズォーダーとの戦いを経て、自ら死を選びます。

『2202』も、『2199』と同じように旧作通りの最終決戦は描かなかったわけですが、それでも「宇宙は母なのだ」と叫んだ旧作古代と同じように、汎宇宙的な平和を求める視点を持って戦った点では、『2202』古代も旧作を踏襲していたと言えます。

そして『2205』前章では、『2202』を経て確立された古代進の理想が、若き勇者たちの素朴な理想と合致していく様子が描かれました。それは「宇宙平和の使者」だとか、汎宇宙的な平和だとかといった大きな視点ではないかもしれませんが、ただそこで苦しんでいる人を助けたい、との純粋な想いから戦うその姿は、「人類最後の希望」を超えたものであることには違いありません。

 

このように、ナミガワ様も指摘するように、『2199』『2202』『2205』と回を追うごとに、ヤマトは次第に「人類最後の希望」ではなく、より大きな「平和」を求めるために戦うようになっていっていることが分かります。であれば、『2205』に続く作品がどんな作品であるかは、かなり重要になってきます。

確かに『2205』は、一つの分水嶺であると言えそうですね。