ymtetcのブログ

偶数日に『宇宙戦艦ヤマト』を考えるブログです。

いただいたコメントから:『ヤマト』シリーズの「敵」像

こんにちは。ymtetcです。

先日の記事「『ヤマト完結編』がシリーズ入門編になり得る可能性」に、Aizengald様よりコメントをいただきました。

そもそもディンギルは「女子供をすべて見捨てて」脱出した時点で滅亡確定してます(映画の冒頭10分間くらいですか?)。
哺乳類でメス側をすべて失うことの意味を全く考えていない。もうすでに「種族として生き残れていない」ことが確定しているわけですあり、北斗の拳的に言えば「お前はすでに死んでいる」状態です。
そんな状況なのにも関わず、そのあと2時間以上かけて「強いものが生き残る」とかほざいているのが、女性から見れば「こいつら全員3,4歳のガキか?」的な評価しかできないわけで、一致して「くだらない映画」の評価となりました。

こうした頭のねじが緩み切ったパープーリンなシナリオは、後期のヤマトの特徴と言えば特徴なわけですが、これでフォロワー増やせるんですかね?

「女子供を見捨てる」としたディンギルは無能であり、そのシナリオは不味いとの指摘です。その通りだなと思いました。また、最近ではもはや「敵を有能にする」ことは、バトルもの、戦争ものには必須の要素となっています。その点から考えても、Aizengald様のご指摘は正しいものと思います。

さて、いただいたコメントを読んでいた際に、私の中ではある疑問が浮かびました。それは、

  • なぜ『完結編』は、映画の冒頭で敵役にわざわざ「女子供は見捨てる」と言わせたのか?

です。今日はこれについて、書いてみたいと思います。

1912年のタイタニック号沈没事故では、脱出の際、女性と子どもが優先されたと言われています。女性と子どもはどちらかといえば優先されるべき存在であって、「滅んで当然」と身捨てるべき存在ではありません。

これは『完結編』が作られた当時も常識であったことと思います。ゆえに映画冒頭のこのセリフは、作り手が意図的に「誤った観念」を描いたものだと考えた方がいいでしょう。

では、それは一体なぜか。今回の敵が「話し合えない相手であること」を序盤で表現するためだったのではないでしょうか。

思えば『ヤマト』シリーズでは、しばしば物語の序盤に、今回の敵が「話し合えない相手であること」を示す描写が出てきます。

第一作と『さらば』では、物語の序盤に、ガミラスやガトランティスが「絶滅か奴隷化か」の二者択一で迫ってきていることを示しています。『永遠に』では、問答無用の重核子爆弾が火星基地を襲います。そして『完結編』では例の「女子供は……」だけでなく、「我らの前に現れる者は全て敵」というセリフも出てきます。

いずれも、ヤマトがその作品で立ち向かう敵は容易に話し合いや和平に応じる相手ではない、と強調している表現です。

特に『ヤマト』の場合、古代が第一作の時点で、「愛し合うべきだった」と叫んでいました。古代が話し合いや和平、相互理解の大切さを実感していることは、その後の物語の前提になってしまっていたのです。

しかし、『ヤマト』は戦争や戦闘を描いて『宇宙戦艦ヤマト』にしなければなりません。そこで、ヤマトが敵対する存在を「話し合えない相手」にすることが必要になりました。

だから『完結編』もまた、序盤で敵役に、明らかに誤った観念をわざわざ口走らせたのではないでしょうか。

時に、「戦う相手にも事情があって……」がヤマトの特徴だと言われることもあります。確かに第一作のガミラスはそうでした。しかしガミラスもまた、地球に対して苛烈な要求をしていることが序盤で表現されています。実際のところ、『ヤマト』の敵はほとんど「話し合える相手」ではなかったのかもしれません。

もちろん、ドメル、デスラー、アルフォン、ラム、ディンギル少年のように、局所的な相互理解は成立していました。しかし、それが大きな和解へと繋がることはほとんどなかったわけです*1

こうして考えた時に、『2199』が「相互理解」をテーマに物語を再構築したことは、シリーズにとってチャレンジングなことだったと言えます。『2199』第一話で、森雪は「(異星人が攻撃している目的は)地球を改造して住もうとしているのかもしれない」と”敵の事情”への共感を示しています。また作劇としても、序盤からシュルツの娘を出すなど「話し合える相手」としてのガミラス像を積み重ねていきます。「相手が先制攻撃をしてきた」という地球側の論理がウソだったことも暴かれていきます。

こうして『2199』は、「話し合える相手」だが互いに事情があって戦わなければならない……という、『ヤマト』の第一作が本来持っていた、現代のアニメーションとしてベーシックな構成をとろうとしていたのではないでしょうか。

しかし、『2202』も「話し合えない相手」を敵としています。このことはある意味、『ヤマト』シリーズの一つの課題と言えるかもしれませんね。

*1:唯一の例外は、局所的な相互理解を権力で国家単位にまで押し広げた、デスラーのガルマンガミラスですね。