【ヤマト2202】観客が物語に馴染めない理由は……
こんにちは。ymtetcです。
企画メモを読むと、福井さんは『さらば』を「ヒューマニズムという理想が過酷な現実に勝利するファンタジー」と解釈しています。そして『2202』のラストはまさに「理想が現実に勝利するファンタジー」。原作の分析とリメイクの内容が一致していると、物語の出来とはまた別の気持ちよさがありますね。
— ymtetc (@ymtetc) 2021年8月9日
福井小説の肝はこれ。なので実はヤマトやガンダムといったシリアスめの映像作品とは相性が悪い。 https://t.co/PQNMHq96do
— 3gou@REVENGE (@merumeru1701) 2021年8月9日
先日、3gou様より「理想が現実に勝利するファンタジー」が福井小説の肝である、との指摘を頂きました。今日はここから、私なりの仮説を考えてみたいと思います。
私は福井小説をきちんとフォローしているわけではないので、福井小説の多くが「理想が現実に勝利するファンタジー」を描いているのかは分かりません。ただ、だと仮定すれば、福井流の脚本と『ヤマト』は確かに相性が良くないのではないか、と思いました。
福井流の肝が「理想が現実に勝利するファンタジー」にあるとするならば、現実社会と乖離した場所を舞台にした作品とは相性が悪い、と私は考えます。なぜなら、現実離れした舞台で「理想が現実に勝利するファンタジー」を描いてしまうと、福井さんのメッセージである「理想が現実に勝利するファンタジー」はかえって見えにくくなってしまうからです。
”現実離れしたものに現実離れしたものを重ねる”ことになってしまえば、観客は、物語の一体どこを自分事として捉えればよいのか分からなくなってしまいます。
仮に現実離れした舞台であっても、そこで描かれている物語の結末が現実社会に生きる観客の感覚に近いのであれば、観客は物語を入り口として物語世界に入り込むことができるでしょう。
逆に、現実社会に生きる観客の世界観に則った舞台ならば、現実離れした物語、それこそ「理想が現実に勝利するファンタジー」を描いたとしても、観客は世界観を入り口として物語に入り込むことができるでしょう。
翻って『2202』は、21世紀前半を生きる観客とは遠く離れた23世紀初頭、高性能な宇宙戦艦を揃えて星間国家へと発展しようとしていく地球が舞台です。これは現実社会、とりわけ現実の日本とはあまりにもかけ離れています。おまけに『2202』は『2199』のような科学考証を取り入れなかったために、世界観も「ファンタジー」に近づいています。
その結果、『2202』は現実離れした世界観に現実離れしたメッセージを重ねることとなり、観客との間にギャップを生じてしまった、とは考えられないでしょうか。

これを仮説として考えると、『ヤマトという時代』のアプローチは福井さんなりのテコ入れだった、と解釈できるかもしれません。『ヤマトという時代』は、リメイク・ヤマトの世界を、観客の知る現実社会と繋げようとした作品だったからです。
『2205』がどのような世界観で物語を構築していくのかはまだ分かりません。ですが、あくまで「理想が現実に勝利するファンタジー」でいくならば、舞台設定を現実社会に近づけるように工夫した方が、より観客にとって馴染みやすい作品となるのではないか。そう私は考えます。