こんにちは。ymtetcです。
「もう大人たちには期待しない。あるべき未来を求め、伝説の艦に乗り込んだ若者たちが波乱を呼ぶ。新生ヤマト、出撃の時――。」
『2205』のキャッチコピーです。これ自体が波乱を呼んだキャッチコピーでした。
今日はこれをベースに、『2202』っぽく『2205』を妄想してみます。
「あるべき未来」。私は非常に福井さんらしい言葉選びだと思いました。「理想が現実に勝利するファンタジー」を描く福井さんの志向からすれば、「あるべき未来」の「あるべき」が、まさに「理想」に相当するからです。『2202』も、古代たちにとっての「あるべき未来」が実現していないからこそヤマトは旅立ったのだ、と説明することができます。
さて、『2205』では若者たちが「あるべき未来」を求めるそうです。そして同じように、古代も「あるべき未来」を求めることになる可能性が高い。
その中で、もし仮に、デザリアムの提示する「未来」が、古代や土門たちの直面する現実よりもずっと、「あるべき」姿であったならばどうでしょうか。
デザリアムは明確に地球、ガミラス、イスカンダルにとっては敵。だけど、彼らの提示する「未来」は古代や土門の理想を実現している。彼らはその「未来」のために戦っている……。そうすると、古代や土門は、デザリアムと戦うことに大なり小なりの葛藤をおぼえることになるでしょう。
例えば、デザリアムが本当に未来の地球だったとします。そこでは人間が人間であることをやめていますが、古代や土門にとっての理想郷が実現している。デザリアムの提示する「未来」は古代や土門の理想そのもの……なら、その理想は何のためにあるのか? 人が人である意味とは何なのだろうか? それが再び問われる戦いになる。
とすれば、非常に『2202』っぽい新作ができあがります。
ただ、この妄想には福井さんが明かしている「希望」のキーワードは当てはまりません。「希望」は『2202』ではあまり強調されなかった言葉でした。そのため、『2205』での新要素になる可能性があります。
この変化(?)は、そもそも福井さんの引き出しの中にあったものなのか、あるいは『2202』企画(2015年)以降の時間で新たにアップデートされたものなのか、あるいは変化ではないのか。この辺りは一つの論点となりそうですね。