ymtetcのブログ

偶数日に『宇宙戦艦ヤマト』を考えるブログです。

【ヤマト2205】小林理論への懸念

こんにちは。ymtetcです。

既に公開されている数少ない『2205』情報に、先日公開された新メカのデザインがあります。

宇宙戦艦ヤマト|キャラクタープラモデル|バンダイ ホビーサイト

私の印象としては、「『2199』メカを好きな人向けに『2202』メカを引き継いだ」感じでしょうか。ベースは『2202』の流れを汲みつつも、そのマーキングやカラーリングについては「脱『2202』」を志向しており、『2199』ファンも『2202』ファンも受け入れられるようなデザインにしようとしているのではないでしょうか。

さて今日は、そんな『2205』メカに対して私が抱いている、とある懸念について考えてきます。

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「地球の危機」と「ヤマトの敵」:『宇宙戦艦ヤマト』の枠組み

こんにちは。ymtetcです。

どうやら映画『ヤマトという時代』は延期なく公開されるようですね。『2199』『2202』をどうドキュメンタリー風に料理するかが注目される映画です。『2205』の予告もありそうなので、期待大ですね。

さて、今日は『宇宙戦艦ヤマト』という作品そのものについて考えていきます。「ヤマトらしさ」とは言われますが、実際のところ『ヤマト』はとてもシンプルだ、との話です。

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「シン・好敵手」な『宇宙戦艦ヤマト』があってもいい

こんにちは。ymtetcです。

一昨日、こんなツイートをしました。

今日はこれについて、考えていきます。

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いただいたコメントから:『ヤマト』シリーズの「敵」像

こんにちは。ymtetcです。

先日の記事「『ヤマト完結編』がシリーズ入門編になり得る可能性」に、Aizengald様よりコメントをいただきました。

そもそもディンギルは「女子供をすべて見捨てて」脱出した時点で滅亡確定してます(映画の冒頭10分間くらいですか?)。
哺乳類でメス側をすべて失うことの意味を全く考えていない。もうすでに「種族として生き残れていない」ことが確定しているわけですあり、北斗の拳的に言えば「お前はすでに死んでいる」状態です。
そんな状況なのにも関わず、そのあと2時間以上かけて「強いものが生き残る」とかほざいているのが、女性から見れば「こいつら全員3,4歳のガキか?」的な評価しかできないわけで、一致して「くだらない映画」の評価となりました。

こうした頭のねじが緩み切ったパープーリンなシナリオは、後期のヤマトの特徴と言えば特徴なわけですが、これでフォロワー増やせるんですかね?

「女子供を見捨てる」としたディンギルは無能であり、そのシナリオは不味いとの指摘です。その通りだなと思いました。また、最近ではもはや「敵を有能にする」ことは、バトルもの、戦争ものには必須の要素となっています。その点から考えても、Aizengald様のご指摘は正しいものと思います。

さて、いただいたコメントを読んでいた際に、私の中ではある疑問が浮かびました。それは、

  • なぜ『完結編』は、映画の冒頭で敵役にわざわざ「女子供は見捨てる」と言わせたのか?

です。今日はこれについて、書いてみたいと思います。

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コメントに答えて:自己犠牲とは、愛とは

こんにちは。ymtetcです。

前回の記事「横山論文を読む:『ヤマト復活篇』へのまなざし」に対して、アシュラッド帝国皇帝様よりコメントをいただいたので、今日はそれにお答えする形で記事を書いてみようと思います。

(略)

西崎氏と松本氏が大きく対立し、結果として「さらば」と「2」で異なった結末となったという有名なエピソードに対する論評がないのも問題です。これについては、敗戦当時に小学生以上の年齢であった両氏ですが、生い立ちについては大きく違うことが影響されると思います。特に1特攻兵に対する心情については、両者が感ずるものは大きく深く違うと思います。

(略)

これに対する以下の質問に対して、ymtetcさんの見解を頂きたいです。

1・何故西崎氏と松本氏が、当時対立したのかを生い立ちから導き出される推論
(略)

まずはこの点です。Twitterをフォローしてくださっている方には伝わるかと思いますが、私自身も西崎さんと松本さんの生い立ちについて詳しい立場ではありません。

ということで、この点はアシュラッド帝国皇帝様の議論に同意見です。

付け加えるとすれば、西﨑さんと松本さんの違いは、戦争に対するイメージの違いなのかもしれないと思いました。例えば、西崎さんにとっての大和が「軍艦マーチにのって勇ましく出撃する存在」だとすれば、松本さんにとっては「血にまみれた戦場」である、そんなイメージです。

少なくとも、戦場のリアルにこだわる松本さんに対して、西崎さんはどこか戦場とは距離を置いた、引いた視点を持っていたように思います。決して「西崎さんは戦争を具体的にイメージできていなかった」と言いたいのではありません。単に、両者の体感した「戦争」の違いが、ここに反映されているのではないでしょうか。

 

次に、こちらの点です。

(略)

幼稚園児という、実年齢からすると珍しい「パート1」から入った身としては、ymtetcさんが上げられる「ヤマトらしさ」は私としては違和感となります。
「さらば」以降の「自己犠牲」、「愛」と言ったワードは、白々しさを感じてしまうのです。
「パート1」は、「未知の世界への冒険譚」、「敵との交流」、「全力を出した上での知恵と勇気」、「何としても生き残るための努力」と言った、論理的な面に私は強く惹かれました。俗に言う「左脳」を刺激するもので、「2199」も実は同様でした。
対する「さらば」以降は、「右脳」の情緒に強く刺激する内容であったのだと思いま
す。ですら当時は「時代性」があってヒットしたのだと思いますし、現代的には合わないのだと思います。

(略)

これに対する以下の質問に対して、ymtetcさんの見解を頂きたいです。

(略)
2・「自己犠牲」や「愛」にいて、ymtetcさんにとっては具体的に何か

まずは、答えのシンプルな「愛」からいきます。

「愛」については、『2202』に至るまで真剣に考えたことがありませんでした。その中で『2202』を迎えたので、実は『2202』の「愛」が私の中ではかなりしっくりきています。

『2202』における「愛」とは何だったかといえば、「人の心」でした。

特に、何かを大切に思ったり、何かに執着したりする気持ちのことを「愛」と『2202』は定義していました。ごくごくシンプルで悪くない発想だなと私は思います。

なので、具体的に何かと問われれば、難しいのが現実です。例えばいま私はブログを書いているわけですが、これもまた「愛」です。ブログを書いていていいことがたくさんあったので、ブログをとても大切に思っている。「愛」ですよね。あるいは2009年、私が『復活篇』に怒っていたこともまた「愛」です。これは私が『完結編』までの『ヤマト』を大切に思っていたことが、『復活篇』への怒りに繋がった。これもまた「愛」でしょう。

ゆえにこの定義に則れば、人間の登場する作品のほとんどすべてが、無自覚的に「愛」を描いていることになります。そのことを強調するために敢えて「愛を否定する」人々を登場させたのが、『2202』だったとも言えますね。

では、「自己犠牲」の方も考えてみましょう。

「自己犠牲」とは何か、についても、実はこれまで真剣に考えたことはありませんでした。そこでこちらは、横山論文の発想を参考に考えてみたいと思います。

横山論文では、「自己犠牲」は「自己中心」の対義語として用いられていました。私も横山論文に賛同する立場ではありませんが、これはいい発想なのではないかと思います。自己犠牲を自己中心の対義語として捉えることで、「自己犠牲」という言葉のもつ意味はとても広くなるからです。

例えば、目的地へ急いでいる時に、偶然遭遇した困っている人に手を差し伸べること。「自己犠牲」が「自己中心」の対義語ならば、これも立派な「自己犠牲」になります。自己の時間を犠牲にしているわけです。

これは重要な意味を持ちます。すなわち、体当たり攻撃(特攻)だけが「自己犠牲」ではないのです。

横山論文が否定する『2202』のラストですが、あれは果たして「自己中心」なのか、と考えることもできます。もちろん、国益に背いてただ二人の軍人を救出したあのラストは、国家に対しては「自己中心」かもしれません。しかし見方を変えれば、地球の国民たちは自己にとって利益ある時間断層を犠牲にして、二人を助け出したとも言えます。

このように、「自己犠牲」(「自己中心」の対義語)は多面的に捉えることができる言葉だと思います。『さらば』が大ヒットした要因として否定することのできない「自己犠牲」の要素ですが、自ら命を投げ出すことだけが「自己犠牲」ではないと考えれば、また新しい『ヤマト』の姿が見えてくるかもしれませんね。

横山論文を読む:『ヤマト復活篇』へのまなざし

こんにちは。ymtetcです。

先日このブログで、横山孝一先生の論文を紹介しました。基本的には『2202』を中心にリメイクヤマトを批判した内容なのですが、研究のプロフェッショナルが実名で公開しているだけあって、そのクオリティは一般的なレビューとは一線を画しています。

そこで、これから時々機会をとって、論文に書かれている内容からテーマをピックアップして、記事を書いてみたいと思います。

今日は『復活篇』を横山先生がどう見ているか、というところから、いくつか私なりの意見を書いてみたいと思います。以下、論文は「横山論文」と呼称することにします。

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