ヤマト『完結編』の魅力:短文一考
突然ですが、ヤマト完結編は駄作です。
誤解を招く表現なのは承知ですが、そもそも沖田艦長が生き返るといったことを適当に(少なくとも「誤診」などというのは雑でしょう)やる時点でロクな映画ではありません。
それでも完結編の価値は、復活篇と並んで大きなものであると私は思います。
そもそも完結編は、1974年から続く「ヤマト10年」の最終作に位置付けられます。
西﨑Pにはこの時点での復活篇構想はなかったとは思いますが、この完結編からおおよそ10年が経って復活篇が登場します。
余談ですが、復活篇は本当にちょうどいいタイミングで出ているんですよね。
とはいえ、ヤマト10年で区切りをつける映画がこの完結編ということで、本編には常時「最終回」の雰囲気が漂っています。
というのも、沖田艦長の復活もそうですが、「ヤマトには命があるのか?」というミステリアスなシーン、ラストでの一種の神格化、さらばを思い起こさせる発進シーンなど、これまで毎回「新しいもの」を作ってきた西﨑Pの作風とはやや異なり、ヤマトシリーズの総括と原点回帰(冥王星会戦、艦隊編成など)という側面が色濃くなっているのです。
そして一種の神格化に関しては、現代風に言えば「ヤマトは神!」とでも言うべき感情を持っていた熱狂的な当時のヤマトファンに向けられたものではなかったでしょうか。
以上の2点は、完結編をある人にとっては魅力的にしたかもしれません。しかし熱心なファンではなかった人々はそれに対して冷淡に感じたかもしれない。
ここに、完結編が「駄作」ながら魅力的であるという相反する状況が生まれるのかもしれませんね。