ymtetcのブログ

偶数日に『宇宙戦艦ヤマト』を考えるブログです。

2199のデスラーはあれでよかったのか:その1

こんばんは。ymtetcです。このテーマの記事は少し長くなりそうなので、2回ほどに分けて書いてみたいと思います。

2199のデスラーは、しばしば批判されますよね。「2199は良かったけどデスラーの扱いがねぇ」。そんな声をよく聞きます。

その批判の内容を分類してみると、大きく以下の二つに分けられます。

  • 武人デスラーとのギャップ
  • 物語としての完成度

目次

武人デスラーとのギャップ

これはシンプルな問題です。現在のヤマトファンの中にはデスラーファンの人もいるわけですが、その方々にとっては『さらば』以降の武人・デスラーこそがデスラーであると。そして、彼等のデスラー像と2199のデスラーは違う。そんな批判です。

このようなデスラーファンの中には「2199のデスラーの扱いは酷かった、2202はよくぞ挽回してくれた」と、デスラーを通じて2199下げ、2202上げをする人までいます。

「旧作もそうだった」という反論

これに対する反論はシンプルで、

  • そもそも第1作のデスラーは退廃的であり、武人のイメージは『さらば』以降のもの。出渕さんは第1作のデスラーが好きなので、その再現をしたに過ぎない。

というものです。

この反論も一理あるでしょう。

批判それ自体は否定できない

また、武人デスラーと比較した2199デスラーの批判、それ自体を否定することは出来ません。

我々は「武人デスラーが登場したその後の世界」=「ポスト武人デスラーの世界」を生きているのですから、新作である2199に武人デスラーを期待すること、期待する人がいるという状況はどうやっても避けられません*1

これらの状況を踏まえ、今日は、旧作から2199デスラー描写の妥当性を仮説的に考えていきたいと思います。

「愛し合うべきだった」

ymtetc.hatenablog.com

昨日の記事を書く前から、今日はデスラーの記事にしようと思っていたのですが、偶然にも通りすがり様より、こんな書き込みを頂きました。

(……)ちなみに初代ヤマトの段階で、私が知る限りデスラーのファンなんていません。ドメル将軍のファンは沢山いましたが、初代のデスラーは極悪非道な独裁者に過ぎないからです。それが代わるのが「さらば」で、ドメル将軍デスラーに憑依させた、あの「デスラー戦法」という南部さんの台詞が大きい。(……)

ドメル将軍デスラーに憑依させる、という作劇上の操作をご指摘されている部分が興味深い所ではありますが、

今日は、「第一作→さらば」に至るデスラー像の変化そのものに着目していきます。

さて、武人デスラーの原点となった『さらば』の「好敵手」シーンは、第一作のガミラス本土決戦、そして古代進の「愛し合うべきだった」に対応するものだと言えるでしょう。

星の全てをかけてヤマトを沈めようとしたデスラーと、生きるため、それに抵抗した結果ガミラスの全てを滅ぼしてしまったヤマト、引き金を引いた古代。

「愛し合うべきだった=愛し合うことが出来たはず」という古代の反省を踏まえ、「愛し合うことの出来ない」敵として白色彗星帝国が登場する。

そんな『さらば』の終盤、デスラーは最後に

「彗星帝国に身を寄せていたとはいえ私の心は遥かに君たちに近い」

と残します。すなわち、前作で愛し合うことが(出来たはずなのに)出来なかった両者(デスラーと古代)が、今際のわずかな間だけとはいえ、愛し合うことが出来るようになった。

これこそ、このシーンが描きたかったもののように思います。

そして、このシーンが観客の心に響いた理由は、「第一作とギャップがあった」からに他なりません。

第一作のデスラーがあのようなキャラクターで、第一作があのような結果に終わったからこそ、ギャップのある『さらば』のあのシーンに観客は胸を打たれたのではないでしょうか。

多様なデスラー像があるとしても

すると「第一作のデスラーを描く」という2199の方針が妥当なものに見えてきます。

2199で第一作のデスラーが描かれたその直接的な背景は、もちろん出渕さんの趣味であったり、リメイクとしての在り方(=単なる再現)であったりしたかもしれません。

しかし、事実として、『さらば』以降の「武人デスラー」が映えるためには第一作のデスラーも必要だったのです。

このギャップこそがキャラクターの成長と変化を表現してくれますからね。

2199では「かっこいい武人デスラー」ではなく、「罪を背負い」「過ちを犯した」デスラーを描く。

多様なデスラー像があることは、出渕さんも承知していたと思います。その上で、これは第一作のリメイクなのだから、第一作のデスラーを描く。それと同時に、仮に第二作があった時に、他のデスラー像も取り入れることの出来るような余地を残す。

意図があったにせよ、なかったにせよ、結果的に2199はそうなっていました。だからこそ、2202の付け入る隙が生まれた。

この点からいえば、2199のデスラー像はとても妥当なものであったように私には思えます。

 

次回は「物語としての完成度」に注目して書いていく予定です。

*1:話が逸れますが、このような考え方で2202を批判することもできます。2202の設定の詰めの甘さやミスを「旧作もそうだったから」と擁護することもできますが、我々は「ポスト2199の世界」を生きているのですから、2199レベルのクオリティを2202に求めることも、ある意味では当たり前なのです。