こんばんは。ymtetcです。
昨日の記事では、副監督のツイッター上における振舞いについて、意図しているかどうかはともかくとして、結果的に、
- 批判的な人間の排除=「アンチ」の醸成
- 肯定的な人間の囲い込み=「信者」の醸成
を行っているのではないか。そんなことを考えてみました。
この記事の翌日、副監督のツイッターについて考えてみたことには一つの狙いがありました。今日のタイトルに掲げたような矛盾を強調したかったのです。
2202は、「2199の続編」よりも多くの人に対して「開」かれた作品を作るため、「さらばのリメイク」というコピーを加えて始動しました。
例えば『方舟』においても、2199以上に観客層を切り「開」こうとした形跡があります。それが「ガトランティス」という要素です。「ガトランティス」と聞けば否が応でも『さらば』を想起せざるを得ないのであり*1、「ガトランティス」の存在は、いわばライト層の呼び水としての機能も期待されていたと思います。同様に、今度はいよいよ『さらば』を呼び水として掲げる作品を作ろうというわけです。
一方、『さらば』だけでは復活篇同様失敗のリスクもあるので、「2199の続編」という呼び水も温存しておく。そして『さらば』と『2199』の折衷を福井晴敏(さらば寄り)と岡秀樹(ヤマト2/2199寄り)にやらせる。
言い換えるならば、2199ファンにも『さらば』ファンにも「開」かれた作品を作るということです。折衷のクオリティ次第ではあるものの、スタッフィング含め、コンセプトとしては非常によくできています。
しかし、副監督のツイッター上における振舞いはどうか。これは一言で表現するなら「分断工作」です。分断し、その一方へ形成された「ファン」に商品を買わせる。
批判者を排除し、支持者を囲い込むというのは「閉」じたアプローチです。売上では「閉」じることによって成果が上がっても、これは作品としての2202が持つ「開」かれたコンセプトとの矛盾を生み出します。
また、良くも悪くもアクの強いメカ。勢い重視でリアリティ度外視の設定・演出。どれも2199との矛盾が指摘されるアプローチです。2202は「2199のファン」に対して門戸を「開」こうとしているにもかかわらず、そこに対しても「分断」をもたらしました。
また、リアリティとファンタジー性を両極において考えれば、ファンタジーに近づけば近づくだけ、普遍性が失われてきます。ちょうど2199の第14話が批判を受けたように、観客がその世界観を気に入るかどうかが重要となる*2。いわば作品の根幹とは関係のない論点が生じてくるのです。
これらの点から言えば、2202の内実は普遍性を欠いています。特にメカやデザイン、設定といった作品の根幹から少し外れた部分で。
会議を経て作られたものですから「脚本と映像の相剋」とまでは言いたくありませんが、こうして見ると、2202の抱えた問題の一つに「シナリオ及びコンセプト上の普遍性と、映像化過程において付加された特殊性に矛盾がある」ということが指摘できます。
そこへ副監督のツイッター上における「分断工作」的プロモーション戦略を加えた時、「多くの人に見てもらえるように」と願って始動したはずの2202が、結果的には観客を選ぶ作品となってしまった。そう考えられはしないでしょうか。