『宇宙戦艦ヤマト』に批判は欠かせない
こんばんは。ymtetcです。
「批判」に対する批判、いわゆる「アンチ批判」のようなものが出てくるのは、ある意味では仕方のないことだと思います。
特に「アンチ」というレッテルを貼られるような言論は往々にして言葉遣いも荒く、作り手の人格否定にまで至ることもしばしばですから、そんなものは見たくないと感じるのも、当然です。
しかし、「批判」それ自体は禁じられるべきものなのでしょうか。
「嫌なら観るな」「批判するなら観るな」
そんな言論がまかり通っていていいのでしょうか。
私は違うと思います。
何故ならば、『宇宙戦艦ヤマト』というコンテンツには現在、唯一絶対神も、その正統な後継者もいないからです。
例えば、『宇宙戦艦ヤマト』の作者は誰か。法的には西崎義展さんになるのでしょうか。
その辺りは詳しくありませんし、私はむしろ西崎さんを原作者とすることには賛成の立場です。
しかしながら、『宇宙戦艦ヤマト』の作者を問えば、その答えは百人百様でしょう。
あるいは、作品内の個別の要素についても、同様です。
例えばメカ。初代ヤマト、さらば、ヤマト2あたりを全盛期とすれば「松本零士」「スタジオぬえ」が人気と思いますが、シリーズ全体を通して何らかの統一解があるわけではありません。
キャラクターデザインもそうですね。「松本零士」要素に全振りしたPSヤマトのデザインは人気ですが、そのデザインは原典たるアニメシリーズとはまた違うものです。
このように、『ヤマト』を取り巻く個別の要素は、個々人の拘りは存在しても、ヤマトファンの共通解、絶対的な答えというものは存在しません。
「松本零士」は唯一絶対神になり得た存在でした。しかし、あの裁判以降は『ヤマト』から遠ざかっています。
裁判の結果、唯一絶対神になった「西崎義展」も、復活篇の大失敗によって、その権威は失墜してしまったに等しい。こうして見た時に、今後の『ヤマト』は、ある意味「民主」的な営みの上に立つべきであるように思います。
つまり、個々人が認められるものを認め、認められないものを認めない。この繰り返しで、個人的意見の集合体としての「世論」を形成する。今後の『ヤマト』は、「世論」と密接に関係しながら、そのあるべき姿を模索し続ける。
このような営みの上に、今後の『ヤマト』はあるべきだと思われるのです。
そしてこの営みの中で、批判意見は欠かせないものなのです。
今後の『ヤマト』が、より多くの人々に受け入れられる作品となるために。
ちなみに、例外は音楽です。
そして今は、その絶対的後継者たる「宮川彬良」がいます。
2199、2202と賛否がありながら、最も論争が少なかったのは、やはり音楽でしたよね。
その点から言えば、ヤマト音楽の未来はシンプルです。
もし今後、「宮川彬良」がヤマトから離れたら。
その時は、
これが問われるだけなのです。
その点から言えば「羽田健太郎」は「宮川泰」を受け継ぎつつ、塗り替えていく存在として、大変貴重だったのですけれど……。こればっかりは。