こんにちは。ymtetcです。
今日は、シリーズ作品としての『宇宙戦艦ヤマト』に待っている、避けがたい宿命について考えてみたいと思います。キーワードは「火中の栗」です。
この「火中の栗」と言えば、『2199』に挑んだ際の出渕裕総監督の言葉。
「4年以上前にこの企画の話をいただいた時は、周りから『危ないからやめておけ』『火中の栗を拾うようなものだ』と言われた。しかしこの『火中の栗』は拾わなければならないと思い、4年間やってきた。100人いれば100人の『ヤマト』像がある。全部を満足させるのは不可能だが、だいたいの人が『これがヤマトであろう』と思う最小公倍数か最大公約数のようなレベルまでは持っていけたのではないか。本日は『ヤマト2199』に乗船いだたき、ありがとうございました」
そもそも「火中の栗」とは”あえて危険に身を投ずること”を意味します*1。
『2199』の2012年から4年以上前、すなわち2008年以前当時の『宇宙戦艦ヤマト』情勢は、(私も詳しくはありませんが)繰り返し頓挫した『復活篇』問題など混沌としていました。2010年には西崎義展さんの急死もあり、より「火中の栗」は過熱していたと推測できます。
そんな中、出渕さんは『復活篇』で”オワコン”のレッテルを貼られた『宇宙戦艦ヤマト』を、現代に生きるコンテンツとして蘇らせることに成功しました。
ですが、『2199』がいざスタートしてみると、その「火中の栗」という言葉は新たな段階に発展したと考えます。ある意味政治ドラマ的だった『2199』前夜の「火中」とは打って変わって、いざコンテンツとして『宇宙戦艦ヤマト』を復活させてみれば、また別の問題──ファンの批判という問題──が浮上してきたのです。
これはレベルを変えつつも、『2199』『2202』『2205』に全て当てはまるものだと考えます。
『宇宙戦艦ヤマト』に限らず、長期的に支持されている人気シリーズ作品の宿命と言えるのが、作品の担い手(クリエイター・役者等々)の世代交代を行いたい、あるいはそれを行わざるを得ないパトロン側&作り手と、旧世代の作品に立脚点を持つファンの間の衝突です。
近年では『スターウォーズ』シリーズが、2018年の新作『最後のジェダイ』において同様の問題を引き起こしました。
こうした事象の背景は決してひとつではありませんが、ファンの立脚点がどこにあるのか、と考えることで、背景のひとつが見えてきます。
『宇宙戦艦ヤマト』に話を戻しましょう。
例えば『2199』を観ていく上で、既存ファンの立脚点は旧作『ヤマト』(1974年)にありました。当時は「『2199』は旧作を台無しにしていると批判する者(『旧作原理主義者』と蔑称)」「『2199』を称賛して旧作を批判する者(『2199信者』と蔑称)」「『2199』は旧作を正統に受け継いでいると称賛する者(『2199信者』と蔑称)」の三つ巴の争いが、このネット社会で頻発していたことを覚えています。
これ以外を含め、どのような立場をとっていたにしても、『2199』を観る既存ヤマトファンの立脚点が、あくまで旧作『ヤマト』にあったことは間違いありません。
すなわち、極端に出渕さんを「旧作を改悪する無能」と罵ったとしても、極端に「現代にそぐわない旧作を改良する救世主」と崇めたとしても、あくまで「監督」としての出渕さんは*2、旧作『ヤマト』に立脚点を持つファンにとっては『宇宙戦艦ヤマト』へと後から加わった”異物”、”新参者”であったわけです。
このような構図の下では、クリエイターは一見すると「自由」を与えられているように見えても、”ファンの声”という有形無形の制約を常に感じながら作品を作っていくことになります。
どんな作品になろうとも、誰かは必ず熱烈に自分を批判してくる……これをクリエイターの宿命と言ってしまえばそれまでかもしれませんが、場合によっては
ユーザーレビュー - 宇宙戦艦ヤマト2199 星巡る方舟 - 作品 - Yahoo!映画
「一生のお願いだから監督替えて」(”ファンの声”なのだから仕方ありませんよね)とまで言われてしまうわけで、やはり「火中の栗」には違いありません。
ちなみに『2202』の場合は、この側面からいえばもっとひどいことになりました。
自己責任ではありますが、『2199』からスタッフを変更したからです。
『2199』からスタッフが変更された時点で、『2202』を観る既存ファンの立脚点は、旧作『さらば』、旧作『ヤマト2』、そして前作『2199』に置かれることになりました。
ここでは新規スタッフの福井さんや岡さんだけでなく、「監督」としての羽原さん*3、「副監督」としての小林さんまでもが*4、”異物”であり”新参者”となりました。
その結果、『2202』は『2199』よりも遥かに多くの角度から批判されることになりました。既存ファンの立脚点は旧作『さらば』『ヤマト2』だけでなく、前作『2199』にもあったわけです。さらに「火中の栗に油を注ぐ」小林さんのツイッター問題があったのですから、『2202』が一定の数字をとって終わったのはこれ幸い、といった感じでしょう。
このような”異物”に対する批判の特徴は、特定の個人への批判が過熱することにあります。
「監督替えて」という先ほどのユーザーレビューが、まさに『2199』に批判的だったファンの心理を的確に表したものだと言えるでしょう。このレビューを書いた方にとっては、出渕さんはまさに”異物”、さらに言えば、”『宇宙戦艦ヤマト』の破壊者”でした。「監督を替える」という発想は、作品の形を維持したままクリエイターを変更することにありますから、このレビューを書いた方の立脚点が旧作『ヤマト』にあったことを明確に示しています。
それは、『2202』に批判的だったファンにとっての福井さん、羽原さん、小林さんなどの存在も同じです。彼らは”『さらば宇宙戦艦ヤマト』の破壊者”、”『宇宙戦艦ヤマト2』の破壊者”、”『宇宙戦艦ヤマト2199』の破壊者”だったということです。
この構図はきっと『2205』にも、その後の作品にも続いていくでしょう。旧作と全く同じスタッフ、『2199』と全く同じスタッフで全く同じクオリティの作品を作ることは、もう不可能なのですから。
どんな作品にしようと、ほとんどの場合ファン(の誰か)によって批判され、自分は個人批判の標的となる。その意味ではクリエイターにとって、『宇宙戦艦ヤマト』は「火中の栗」であり続けるのです*5。
冒頭で例として出した『スターウォーズ』シリーズでは、ファンによる個人批判が行き過ぎ、「殺害の脅迫」にまで至りました。
映画『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』ライアン・ジョンソン監督、殺害の脅迫受けていた | THE RIVER
『宇宙戦艦ヤマト2199』シリーズへの批判は、まだここまでの次元には達していません。ですが、『スターウォーズ』ファンが作品を愛する気持ちと、『宇宙戦艦ヤマト』ファンが作品を愛する気持ちの強さは、実はかなり近いところにあると考えます。
新作に対する批判を含めた批評は、シリーズ作品の未来のためという観点では非常に重要なファンの仕事のひとつです。当然、「批判するなら観るな」といった”ファンを黙らせる”態度を(ファンもクリエイターも)とってはいけません。
それでも、『スターウォーズ』のように感情的になりすぎて、ファンの方からレベルを落としてしまっては元も子もありません。それは「ファンの声なんて全く聞く必要はない」というクリエイターの台頭を許し、シリーズに対して誠実に向き合うクリエイターをむしろ遠ざけてしまうことになりかねないのです*6。
大切なのは、新作に対して抱いた感情を言語化し、”何がよかったのか”、”何が気に入らなかったのか”、”それはなぜか”、etc……といった形で思考を深めつつ、常に自らの立脚点たる旧作・前作を問い直しながら、”ファンの声”を的確に届けていくことではないでしょうか。それは、年齢層が高く成熟している『宇宙戦艦ヤマト』のファン層だからこそ可能なシリーズ作品のあり方だと考えます。
私は、クリエイターとファンの間で交わされるこのような絶えることのない対話こそが、本当にファンが望む、観客の望む、社会の望む『宇宙戦艦ヤマト』を誕生させ、『宇宙戦艦ヤマト』の「真の復権」を実現させるための重要な要素であると信じています。