ymtetcのブログ

偶数日に『宇宙戦艦ヤマト』を考えるブログです。

『ヤマト2205』は「パラダイムシフト」に対応できない

パラダイムシフト

 その時代や分野において支配的規範となる「物の見方や捉え方」が、革命的かつ非連続的に変化する場合、そのような変化を「パラダイムシフト」「パラダイムの転換」などと呼びます。

第15回 パラダイム | 10分でわかるカタカナ語(三省堂編修所) | 三省堂 ことばのコラム

はじめに

こんにちは。ymtetcです。

最近の新感染症により、世界や日本で「パラダイムシフト」(以下「」なし)が起こることが予見されています。「外出」そのものがリスクとなる感染症の流行で、すでに皆さまの周囲にも様々な変化が生じていることでしょう。

そして私たちは、このようなパラダイムシフトを、およそ10年前に経験しています。

震災です。「震災 パラダイムシフト」といった形で検索をかけると、いくつかの記事がヒットすることと思います。

私たちが趣味の軸足のひとつを置く映像娯楽作品も、このパラダイムシフトとは無縁ではありませんでした。

2016年公開の映画『シン・ゴジラ』・アニメ映画『君の名は。』が巻き起こした大ヒット。それは、既存の観客層(庵野秀明ファン、ゴジラファン、新海誠ファン)と潜在的なターゲット層(アニメファン等々)を超越した、全日本的な大ヒット・大ブームでした。このことは、震災後の日本に発生したパラダイムシフトとの関係なくして語ることはできません。

では、このパラダイムシフトの中で『宇宙戦艦ヤマト』はどう振る舞ったのでしょうか。これを考えていくと、『2205』はとても惜しい作品になることが決まってしまった……という、ファンとしては切ない現実が見えてきました。

パラダイムシフトと『宇宙戦艦ヤマト

パラダイムシフトに対応できなかった『2199』

まず、『宇宙戦艦ヤマト2199』はこのパラダイムシフトに対応することができませんでした。もちろん、無縁だったわけではなく、震災は「この時代だからこそ素晴らしい『ヤマト』を作ろう」という制作陣の使命感に繋がっていたそうです。

とはいえ、

「2199って、震災に配慮して”放射能”を全面に押し出さなくなったんだろ?」

「いや、2199は震災前に脚本が完成していたから配慮じゃない。最新の科学考証に基づいて設定を作ったからだよ」

という会話がしばしば交わされるほどには、『2199』は日本社会に起きたパラダイムシフトに、十分に対応できてはいなかったのです。

それは、『2199』があれだけのハイクオリティで全26話を完走しながら、数字としては既存のヤマトファン・既存の潜在的なヤマトファンを動員しただけに過ぎない結果に終わってしまった(それでも十分ヒットだし、偉業ではあるけれど)、その要因の一つだと考えられます。

宇宙戦艦ヤマト』(1974年)のリメイクがもう少し遅れ、震災後のパラダイムシフトに対応できていたら、それは『2199』とは違った形をとって、違った数字を残していたかもしれません。この点では、『2199』は『シン・ゴジラ』になれなかった”惜しい作品”だったわけです*1。 

パラダイムシフトに対応した『2202』

これに対して、2015年に企画され、2017年2月から公開が始まった『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』は震災後の日本を強く意識していました*2。これは、皆さまもご存じの通りだと思います。

ですが、パラダイムシフトに対応できていなかった『2199』の続編として、『2202』はどのように震災後のパラダイムシフトを反映させたのでしょうか。

ここで重要な役割を果たしたのが、《コスモリバースシステム》をめぐる劇中世界のパラダイムシフトだと考えます。

『2202』は、『2199』で登場した《コスモリバースシステム》に「副作用」という新設定を追加し、その「副作用」によって地球は《時間断層》という魔法の箱を手に入れ、イスカンダルとの約束に反する波動砲艦隊を整備した……としました。

この《時間断層》は震災後の原子力発電所のように禍々しく描かれました。結果、大量破壊兵器の象徴に過ぎなかった『2199』の波動砲は、『2202』では一歩進んで「核」「原子力」をモチーフにした存在へと変更されました。

《時間断層》の重要な点は、『2202』の劇中世界でパラダイムシフトを起こしたことにあります。

震災後のパラダイムシフトが反映されていなかった『2199』を引き継ぐ『2202』に、震災後のパラダイムシフトを反映させるためには、こうした形で劇中世界にもパラダイムシフトを起こすことが必要だったのでしょう。

パラダイムシフトに対応できない『2205』

実態はともかくとして、『2202』の福井さんの意識はヤマトファンのその先、日本社会に向いていました。

きっと『2205』にも、大なり小なりそういった視点は存在していたはずです。

ところが、公開年だった今年、震災に次ぐ新しいパラダイムシフトが起ころうとしています。あたかも『2199』にとっての震災のような、直前のタイミングで。

『2205』がこの新たなパラダイムシフトに対応できないことは、言うまでもありません。

『2199』が”惜しい”作品となった背景は、2012年当時、日本社会が確実にパラダイムシフトの渦中にあったにも関わらず『2199』自身はパラダイムシフト以前の産物だった、という点にあります。

『2205』も『2199』と同様にパラダイムシフト以前の産物になってしまいました。本作が公開された時、そこにあるのはパラダイムシフトの渦中、あるいはパラダイムシフト以後の日本社会です。仮に『2205』がハイクオリティだったとしても、それは『2199』と同様、どこまでいっても”惜しい作品”にしかならないということが容易に想像できます。

”日本社会に広く受け入れられる作品になる”という意味での「ヤマトの復権」への取り組みは、今回のパラダイムシフトによって、ゴールの方が遠くに行ってしまったと言えるでしょう。

『シン・エヴァ』も”惜しい作品”になる

今回引き合いに出した『シン・ゴジラ』と言えば庵野秀明さんですが、今年は『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』の完結編にあたる『シン・エヴァ』の公開年でもありました*3

庵野さんは、2013年に公開した『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』で、震災後のパラダイムシフト渦中の混沌をそのまま映し出したような映画を作りました。前作から時間軸が14年飛ばされ、崩壊した世界が描かれた『エヴァQ』は、賛否両論を巻き起こした観客の反応も含め、パラダイムシフト真っ只中の混沌を反映したような作品になりました。そして、パラダイムシフト以後の日本社会に送り出したのが『シン・ゴジラ』だったわけです。

社会の動きや人々の心の動きに敏感に呼応する庵野監督の作風であれば、『シン・エヴァ』も『エヴァンゲリオン』シリーズなりに”西暦2020年の世界”に向きあった作品となっていた可能性が少なくありません。

今回発生するであろうパラダイムシフトが、いつかこの世界にとても大きなヒット作を生むこともあるでしょう。それはある意味、この絶望の中の微かな希望かもしれません。ですが、この「禍」に巻き込まれた既存の作品である『シン・エヴァ』や、『ヤマト2205』を思う時、一抹のやるせなさは拭えませんね。