『ヤマト2202』が克服できなかったもの
こんにちは。ymtetcです。
『宇宙戦艦ヤマトNEXT スターブレイザーズΛ』第4話が公開されました。
先ほど読み終わりました。かなり本作の方向性が見えてきたのではないでしょうか。第3話まで記事にしてきたので、また何かメモ書きでもできたらいいなと思っています。
さて、今日は『2202』の反省会をもう一ついきます。
(前回の反省会: 『ヤマト2202』に足りなかったもの - ymtetcのブログ)
はじめに:『ヤマト2202』の旧作批判
度々ブログでも言及してきましたが、『2202』は、旧『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの後期作品を批判した上で、その企画が提起されています。
映画とは異なる結末を迎えたテレビシリーズの『2』を皮切りに、年次行事のように襲い来る強大な敵と連戦するようになったあの艦。まだ語っていないこと、伝えきれなかったことがあるからではなく、「作り続けなければいけない」商業的事情に衝き動かされての戦いは、当時最高の作画技術で描かれた美麗なショーでしかなく、くり返しテーマに掲げられた”愛”を痩せ衰えさせていきました。奇蹟の復活に歓声を送った若者たちも、嫌でも透けて見えるそうした事情にひっそりと諦念を抱き、作品と距離を置くようになってゆきます。
(「『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』(仮)企画メモ」『シナリオ編』219頁、太字は引用者)
このように、『2202』は旧シリーズの後期作品を「商業的事情」の産物であると評価しています。その上で、『完結編』に至っては「誰もがシラケた気分で見送った」(219頁)作品だとバッサリ切り捨てます。このような旧作認識の上に、『2202』は企画されたのです。
『ヤマト2202』はピュアだったのか
『2202』の旧作批判は、主に「商業的事情」への批判です。特に、福井さんが用いた「まだ語っていないこと、伝えきれなかったことがあるからではなく」との表現は、旧作後期作品は浅はかな”金儲け主義”によって作られた、という通説的な歴史認識に基づくものと言えます。
このように旧作を批判した上で企画された『2202』には、「商業的事情」から作品を作るのではない、”語りたいこと、伝えたいことがあるから”作品を作るのだ、というある種の純粋さ、ピュアさがあって然るべきでしょう(もちろん、「商業的事情」が不要なのではありません)。
では、実際、果たして『2202』はそうだったのか。
確かに『2202』が掲げた「愛」の物語は、「まだ語っていないこと、伝えきれなかったこと」を描いていたと言えます。
ところがその反面、『2202』はその存在の根本的な部分に、重大な「商業的事情」を抱えてしまっているのです。
それは、『2202』が「『2199』の続編」である、という部分です。
単なるリスクヘッジにすぎない「『2199』の続編」
『2202』は何故、「『2199』の続編」なのか。
これを突き詰めると、「商業的事情」に行きついてしまいます。
ファンクラブの会報を読むと、西﨑彰司さんは、どうやら福井さんの起用を『2202』だけの一過性のものではなく、今後のシリーズの展開までを見通したものだと考えていたようです。それは『2205』においても引き続き福井さんが続投した、その事実にも反映されています。
『2199』とは異なる新しい『ヤマト』のスタンダードを作る。福井晴敏の起用にはそんな狙いがあったわけです。そしてそのような思想は、必ずしも直接的ではないにせよ福井さんの方にも伝わっていたようで、以前の記事で引用した、
スタッフを変える理由というのは単純で、「前とは違う作品を作ってくれ」ということですよね。
や、
極端な話、製作委員会側はそれでも新しい『ヤマト』が作れるのならと容認してくれる懐の広さは見せていたんですが、
(「福井晴敏×岡秀樹」『シナリオ編』348頁。)
などの発言に窺うことができます。
ですが、新しい『宇宙戦艦ヤマト』のスタンダードを福井晴敏に託す、というのであれば、それは、既に新しいスタンダードを確立させていた『2199』の続きに位置付けるのではなく、単独のシリーズ作品として企画するのがピュアなやり方だったはずです。
では、何故それをしなかったのか。福井さん自身が語っています。
(略)『2199』というリメイクがあったというのに次に作られる作品は、その続きではないけれど時間軸としては進んでいる旧作のリメイクだと言われてもファンは戸惑ってしまいます。
(「福井晴敏×岡秀樹」『シナリオ編』348頁。)
(略)「2199」を好きなファンの方もいるわけで、それをまったく無視した作品を作るというのはあまりにも効率が悪い。
「ファンは戸惑ってしまいます」「あまりにも効率が悪い」。「『2202』=『2199』の続編」とは、要は商業的に”大コケ”しないためのリスクヘッジなのです。
「商業的事情」は欠かせないけれど
もちろん、商業作品なのですから「商業的事情」は無視できません。故に、そこに配慮することは問題にはならないでしょう。ですが、福井さんは自ら「まだ語っていないこと、伝えきれなかったことがあるからではなく、(略)商業的事情に衝き動かされて」と旧作を批判し、それを克服するものとして『2202』の企画をプレゼンしていた。
それなのに、「21世紀に送る『愛の戦士たち』」(『2202』)が『2199』シリーズの新作として位置づけられていたのは、まさに「商業的事情に衝き動かされて」のことでした。
何故ならば、『2202』が『2199』から受け継いだ設定、特に『2202』において重要な役割を果たした波動砲問題、森雪の記憶喪失などは、『2202』が「理想と現実の相剋」「愛」を描くための手段、悪い言い方をすれば”恰好のネタ”でしかなかったからです。
かつてはプロの小説家、現在は脚本家として活動している福井晴敏が、「理想と現実の相剋」を描くための手段を新作で作れないとは到底思えません。
いやむしろ、『2199』から切り離して自由を与えた方が、新たな『福井晴敏版・宇宙戦艦ヤマト』として魅力的な作品になったのではないかとさえ、私には思えます。
おわりに:『ヤマト2202』の功罪
『2202』が「語るべきテーマ」を語るために生みだされた作品である、という事実だけは、とてもピュアなものだと言えます。『2202』が良かったのは、この21世紀、とりわけ2010年代の末において、福井晴敏という作家に『宇宙戦艦ヤマト』を語らせ『愛の戦士たち』を作らせるという試みを、最後まで遂行したということです。その上、大判の資料集としては安価な値段でシナリオ集を発売した。これも功績と言えるでしょう。私は、『2202』は『復活篇』『SBヤマト』『2199』や『Λ』と同じく、『宇宙戦艦ヤマト』の歴史において大きな意味を持つ作品だと考えます。
しかしながら、それが「『2199』の続編」として生みだされてしまったことは、まさに『2202』が批判するところの「商業的事情」の結果でしかありませんでした。そこは全くピュアではない”大人の事情”なのです。結果として、あたかも西﨑彰司さんと、彰司さんの推す福井さんが”『2199』を乗っ取った”ような形になってしまった(『2202』⇒『2205』)。二人とも、さらに言えば前作『2199』の制作チームにも”よりよい『宇宙戦艦ヤマト』を作りたい”との純粋な想いがあったにも関わらず、このような結果になってしまったのは残念という他ありません。
旧作とは異なる「商業的事情」が、またしても『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの在り方を歪めてしまった。このこともまた、重要な意味を持つ事実だと言えます。