こんにちは。ymtetcです。
今日は箸休めです。
「『ヤマト2202』における「人間性」の「矛盾」」では、『宇宙戦艦ヤマト』シリーズが持っている「矛盾」についても言及しました。
旧作『宇宙戦艦ヤマト』シリーズでは大半の作品のどこかに「反戦」メッセージが盛り込まれていたけれど、新作が作られる度にヤマトは戦う。『オーディーン 光子帆船スターライト』がシリーズ化したならともかく、『宇宙戦艦ヤマト』は『宇宙戦艦ヤマト』。戦いを描くことからは逃れ難いし、観客はむしろ「戦い」を求めて『ヤマト』を観にくる。土星沖海戦で描かれた「戦い」が物足りないとファンに批判を受けたのが、その証明。
ざっと、こんなお話をしましたね。オーディーンの話はいま付け足しましたが(笑)。
この問題意識を福井さんが持っていたかどうかは、今のところ推測でしかありません。ただ、福井さんが ”『2202』は「戦艦なのに反戦」という『ヤマト』の「矛盾」を真正面から受け止めた作品です” と胸を張っているのはどういうことなのか? それを考えてみると、こんな推測もあながち的外れではないのかなと思っています。
で、今日は、この”反戦だけど戦いをカッコよく描き続けなければならない”という旧作シリーズにおける「矛盾」、そして『2199』が『2202』『2205』とシリーズ化していくにあたって同様に抱えるであろう「矛盾」について、”だからこそ『ヤマト』は存在する意味があるんだ”というお話を簡単にやります。
「戦艦」をタイトルに掲げた作品が、繰り返し「反戦」を訴えつつシリーズ化し、半永久的に続いていく。この事実を見た時、こんな指摘もあろうかと思います。
所詮、「反戦」は”言い訳”に過ぎないのでは?
どんなに「反戦」を訴えようが、結局、作品は「戦い」を売りにしている。戦争を商品にしてお金儲けをしているわけで、そんなシリーズが「反戦」を訴えるなど白々しい。
そんな指摘です。戦艦大和の歴史と無関係ではいられない『宇宙戦艦ヤマト』は、道義上「戦争」を肯定する作品にはできません。ですが、作品を作り続けるということは、「戦争」を売り物にするということでもあります。
このような矛盾した存在として『宇宙戦艦ヤマト』シリーズを見つめた時に、その存在意義は一体どこにあるのか。特にこれから「リメイク・ヤマト」がシリーズ化していくにあたって、これからの『宇宙戦艦ヤマト』の存在意義はどこにあるのか。
『2202』的アプローチならば、それに一応の説明がつきそうです。
すなわち『宇宙戦艦ヤマト』とは、
- 「戦い」の不可避性を描き、
- 「戦い」の虚しさを描き、
- それでも「戦い」を終わらせようとする人々の葛藤を描く。
そんな物語である、と。
これならば、『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの存在意義が説明できます。
なぜなら、”「戦い」をしないで済む未来”は半永久的に見つからないからです。
だから、その”もがき”のドラマとして、『宇宙戦艦ヤマト』には存在意義がある。
こうすると、これから『宇宙戦艦ヤマト』がたくさんの作品を世に送り出していく、その意義が説明できると思います。さらに、『2202』では「人間性」をテーマにしたけれど『2205』では……というような形で、”「戦い」の不可避性や虚しさを描く”にも色々と工夫する余地があります。
ですが、この『2202』的なシリーズ構想には一つの問題があります。
それは『宇宙戦艦ヤマト』が、「戦い」を売りにしている作品だという事実です。
この『2202』的なアプローチであれば、必然的に「戦い」の描き方は『2202』的になります。「戦いの虚しさ」が強調される、ということですね。
でもお客さんとしてはやっぱり、「虚しい」ばかりの「戦い」ではちょっとつまんないですよね。
ヤマトが地球を救うヒロイズムだったり、提督の判断で艦隊が窮地を切り抜け敵を薙ぎ払っていくカッコよさだったり。それも、『宇宙戦艦ヤマト』の魅力じゃないですか。加えてプラモデルを売ることも考えたら、そのメリットは大きいですよね。
でも、『2202』のやり方であれば、いわゆる「カッコいい戦闘」は作品のテーマとどこか反してしまうわけです。
あまりに悲痛な「戦い」が描かれるばかりでは盛り上がりにかけ、かといってアリバイ作りのように「カッコいい戦闘」を「カッコよく」描いてしまえば作品のテーマとマッチせず、観客に浮薄な印象を抱かせてしまう。
そこのバランスをどう確保していくか。慎重な舵取りが必要なアプローチと言えます。
正直言うと、私自身は『宇宙戦艦ヤマト』がキャラクター商売になってもメカ商売になっても別に構わない、と考えています。魅力的なキャラが出てきて、魅力的なメカが出てきて、カッコよくてアツくてワクワクして。それでいいじゃないか、とも思うわけです。そもそも私自身は、『宇宙戦艦ヤマト』の「反戦」メッセージに惹かれたわけでもありませんし、フィクションはフィクションなので、フィクションで「戦い」がカッコよく描かれたっていいわけですよ。
ですが、こういう私みたいな意見に対して、”フィクションで現実逃避させる最近のアニメはどうなんだ!”と言うのが福井さんその人なんですね(笑)。
そんな福井さんなので、『2205』でも(『2202』とは異なる形で)「戦いの虚しさ」を描いてくる可能性は、ゼロではないと考えています。
まぁそうなると観る方はしんどいかもしれませんが、それはそれで『2205』のやり方を尊重するほかありません。
どんなアプローチをとるにせよ、何より大切なことは、作り手が「こういう狙いがあるのでこういう作品にしました」と、きちんと説明できることですからね。「リメイク」には原作スタッフが関わらない、ならば、彼らの代わりに自分たちが何をするのか。それを説明できなければ、「リメイク」の意味は半減してしまうと考えています。その点、福井さんはあまり心配しなくていいので助かりますが。
ということで、今日は箸休めでぐだぐだと語らせていただきました。
答えを出すことも大切ですが、答えを求め続けることはそれ以上に大切です。「理想」をどう「現実」とするか。『宇宙戦艦ヤマト』がその答えを求め続ける作品としてシリーズ化されるもの、まぁ一つの妥当な未来ではないかと考えています。
つい先ほど、『スターブレイザーズΛ』が始まりました。
一体、どんな物語になるのでしょう。
私はSFもメカも専門ではないので、その方面についてはただ漠然とした感想しか持てないかもしれませんが、まずは一ファンとして、楽しみたいと思います。