こんにちは。ymtetcです。
私の中で、ずっと大切にしたい問いがあります。それは、
- 『宇宙戦艦ヤマト』とは何か?
との問いです。恐らく永遠の疑問だと言えるかもしれません。何故なら、たとえ”『宇宙戦艦ヤマト』って○○だよね”と結論が得られたとしても、それは唯一・絶対的なものではなく、あくまで多様に存在する結論の一つに過ぎないからです。
そう。
どこにも「真の『宇宙戦艦ヤマト』」など実在しない。それこそが、『宇宙戦艦ヤマト』の「真実」なのかもしれません。
- 「真実」は実在しない(と思う)
- ぼくのわたしの『宇宙戦艦ヤマト』
- 旧『ヤマト』スタッフの手を離れたからこそ
- 「ぼくのわたしの『宇宙戦艦ヤマト』」を自覚する
- 「ぼくのわたしの『宇宙戦艦ヤマト』」を語ること
「真実」は実在しない(と思う)
一般論として、『〇〇の真実』とタイトルに掲げられた書籍の内容は無批判に信用してはならない、という考え方があります。仮に当事者であっても事象の一面的な「真実」しか捉えることはできない、当事者でないなら尚更である、との考え方です。私もそう思います。
つまるところ「真実」とは、それを「真実」と信じる個人個人の集合体の中にしか存在しないものです。その集合体が大きくなって「どうやらこれは『真実』らしい」と広く認められたとしても、決して「これは客観的・絶対的に『真実』である」と確定されたりはしないのです。
ヘンな言い方しかできませんでしたが、要は絶対的な「真実」は存在しない(と私は考えている)のです。ですから、当然『宇宙戦艦ヤマト』像も一つではない。そう思います。
ぼくのわたしの『宇宙戦艦ヤマト』
ですが、実在するものもあります。それが「ぼくの『宇宙戦艦ヤマト』」と「わたしの『宇宙戦艦ヤマト』」です。かつては「俺ヤマト」とよく表現されました。
でも きっと 永遠に
生きているでしょう
あなたの 胸に
心に
魂の中に
とは『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』のテロップですが、私は今だからこそ、この言葉に立ち返らなければならない、と思います。
すなわち『宇宙戦艦ヤマト』とは、それぞれの心の中に実在しているのですね。
旧『ヤマト』スタッフの手を離れたからこそ
『宇宙戦艦ヤマト』の旧スタッフ(定義は難しい)が一定程度の役割を担った最後の作品は『宇宙戦艦ヤマト 復活篇』(2009年)です。逆に言えば、これ以降は基本的に、オリジナルスタッフは『宇宙戦艦ヤマト』に携わっていない。『2199』や『2202』では随所に旧ヤマトスタッフの尽力があったわけですが、そうであっても根本的な部分では、既に『宇宙戦艦ヤマト』はオリジナルスタッフの手を離れたと言ってもいいでしょう。もっとシンプルに考えると、『宇宙戦艦ヤマト』は現在、西﨑義展さんの手の中にも、松本零士さんの手の中にもないわけです。
故に『2199』も『2202』も、根本は「出渕裕の『宇宙戦艦ヤマト』」であり、「福井晴敏(羽原信義・小林誠)の『宇宙戦艦ヤマト』」でしょう。リメイクシリーズとはあくまで、(それがファンの支持を獲得するか否かは別にして)出渕さんや福井さんの「ぼくの『宇宙戦艦ヤマト』」「わたしの『宇宙戦艦ヤマト』」なのだと考えます。考え方によっては、吾嬬竜孝さんも「ぼくの『宇宙戦艦ヤマト』」を作品にしてくれている、と見ることもできます。
「ぼくのわたしの『宇宙戦艦ヤマト』」を自覚する
では、私たち受け手はどのように応じるべきか。
単純です。
私たちは、出渕さんや福井さん、小林さん、羽原さん、吾嬬さんの作る「ぼくのわたしの『宇宙戦艦ヤマト』」を愛してもいいし、愛さなくてもよいのです。
私たち自身が愛さなくてはならないのは、私たち自身の「ぼくのわたしの『宇宙戦艦ヤマト』」だけ。だから私たちは、出渕さん・福井さん・小林さん・羽原さん・吾嬬さんの作る「ぼくのわたしの『宇宙戦艦ヤマト』」を観て・読んで喜んだり、怒ったり、哀しんだり、楽しんだりすれば、それでいい。
重要なのは、私たち自身が持つ「ぼくのわたしの『宇宙戦艦ヤマト』」を、あたかも「真の『宇宙戦艦ヤマト』」かのように勘違いしないことでしょう。出渕さんや羽原さんのような「ヤマトファン」が『宇宙戦艦ヤマト』の作り手になる時代が訪れたからこそ、私たち「ヤマトファン」は謙虚であるべきだと考えます。
「ぼくのわたしの『宇宙戦艦ヤマト』」を語ること
”べき””べき”論が過ぎました。”私たち「ヤマトファン」”だなんて主語も大きい。私自身がまず、謙虚にならないといけませんね(笑)。
それでも私は今、しみじみと思っています。
- クリエイターたちが「ぼくのわたしの『宇宙戦艦ヤマト』」を形にする。
- (彼らと同じかそれ以上に『宇宙戦艦ヤマト』を愛してきた)ヤマトファンが、「ぼくのわたしの『宇宙戦艦ヤマト』」を語り、言葉にする。
- クリエイターたちが「ぼくのわたしの『宇宙戦艦ヤマト』」を形にする。
- ヤマトファンが、「ぼくのわたしの『宇宙戦艦ヤマト』」を語り、言葉にする。
- ……etc
この繰り返しこそが、『宇宙戦艦ヤマト』に最も必要なことなのではないか、と*1。要は、『宇宙戦艦ヤマト』像のキャッチボールです。
作り手と観客の年代が近い『宇宙戦艦ヤマト』だからこそ、こういった営みも可能だと考えます。ああでもない、こうでもないと作り手・観客が(新作を介して)語り合っていけば、いつの日か、一人でも多くの人が、
”これは、「ぼくの(わたしの)『宇宙戦艦ヤマト』」だ。”
と感じるような『宇宙戦艦ヤマト』を作ることができるのではないでしょうか。
つくづく思いますが、出渕さんの語った「最大公約数」は本当に名言ですね。