ymtetcのブログ

偶数日に『宇宙戦艦ヤマト』を考えるブログです。

【休】『さらば』と『2202』第25話、第26話の話

こんにちは。ymtetcです。

今日は、昨日のTLをにわかに騒がせていたこの話題について、考えたことを書いていきます。

昨晩は、『2202』第25話のラストシーンに感動できない、というツイートに対する反論がTLを賑わせていました。私も基本的には反論したい立場でのコメントになりますが、しかしながら、「第25話のラストシーンに感動できない、だから『2202』はダメだ」という主張は決して間違いではないので、そこは他者が否定できるものではない、とも考えています。

さて、『2202』第25話のラストシーンに感動できない理由は、冒頭に引用したツイートの文言に尽きます。そう設計されていないから、そうならない。単純な理由でしょう。それだけに、「設計そのものが間違っている!」という批判ならばとても生産的な議論になるかもしれませんね(そうである必要はありませんが)。

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『2202』がいかにして観客を感動させようとしたのかは、前回の記事で書いていた通りです。すなわち、「地球社会が時間断層を犠牲にして古代進を救出する」筋書きそのものが、『さらば』の「古代進が自分の命を犠牲にして地球を危機から救う」筋書きに対応していた。『2202』は、あの最終話で、『さらば』のラストと同等の感動を観客に与えようとしていました。

このような設計になったのは、ひとえに、福井さんが『さらば』のラストシーンを、以下のように解釈していたからです。

 『さらば~』は、一作目で戦いの虚しさを知った古代たちが、再び戦争に巻き込まれた挙句、その敵にどうやっても勝てないという地獄のような悲劇でした。理想を持たされた若者が現実に押し潰され、最後の抵抗として死を選ぶ物語。

福井さんはさらにこう続けます。

この苛烈さはそのままにして、一度は”向こう側”に行った古代が再び帰ってくるラストを当てはめた時、当の古代はなんと言うだろう?

 筆者に聞こえてきたのは、「もう勘弁してくれよ」という疲れきった声でした。

福井さんは、『さらば』のラストを「現実に押し潰された若者が、最後の抵抗として死を選ぶ」場面だと解釈していました。他のインタビューでは「理想に殉じる」との表現も使っていたと記憶しています。

 

そこで次に、「理想」と「現実」に着目して、『さらば』と『2202』の物語を、福井さんの思考ベースに考え直してみましょう。

 

『さらば』の場合、古代が組み伏せられている「現実」と”特攻”が、結びついています。古代は戦って勝とうとしていたのに勝てなかった。だから最後の抵抗として、体を投げ出す戦いを選ぶ。つまり、『さらば』のラストシーンは古代にとって、”理想を実現するための戦い”。とても前向きな選択なのです。

一方、『2202』の場合は、古代が組み伏せられている「現実」と”特攻”は別の話になっています。古代はズォーダーを説得しようとしたのにできなかった。だからせめてもの抵抗として、ズォーダーが地球を攻撃するまでの時間稼ぎをする。つまり、『2202』第25話のラストシーンは古代にとって、”理想を実現するための戦い”ではありません。とても消極的な選択なのです。

では、『2202』で”理想を実現するための戦い”を行ったのは誰か。昨日の記事で指摘した通り、これは「地球人類」と解釈することができます。

真田の演説は、人間の理想が「ただ生きようとする人間の命を救い出す」ことにあると確認するための演説でした。ゆえに、第25話の特攻のみならず、第26話の真田の演説もまた、『2202』が用意していた一番のヤマ場の前振りに過ぎません。

『2202』が用意していたヤマ場は、生きることを決意した古代のもとへ宇宙戦艦ヤマトが浮上する、あの場面でしょう。時間断層を犠牲に人間を救う。私はあの場面こそが、『さらば』におけるヤマトと古代の”特攻”に相当する場面だと考えます(だから「愛のメロディー」なのです)。