ymtetcのブログ

偶数日に『宇宙戦艦ヤマト』を考えるブログです。

【ヤマトという時代】欠けていた”没入感”とその正体

こんにちは。ymtetcです。

今日は映画『ヤマトという時代』について、少し批判?苦言?めいた内容の記事を書いてみたいと思います。予めご了承ください。

私の『ヤマトという時代』に対するスタンスは、基本的には「もっとやれたはず」です。スタッフの力量としてはもっと面白い映画になったはずだけど、色々な制約があってできなかった……と考えています。

さて、今日は私が「もっとやれる」と感じたポイントの一つ”没入感”について書いてみたいと思います。

『ヤマトという時代』は、基本的に「ドキュメンタリー番組パート」と「再現ドラマパート」の二つで構成されています。前者が真田の語りや沢城さんのナレーション、テロップが重なるパート、後者が本編からの引用パートです。

しかしながら、『ヤマトという時代』では、この二つのパートの区別が曖昧になっていたと私は考えます。そのために、「ドキュメンタリー番組」としての”没入感”が損なわれた、とも考えます。

では、その原因は一体何なのでしょうか。

それは音楽です。

この映画では、「ドキュメンタリー番組パート」と「再現ドラマパート」の双方で、同じヤマト音楽が使用されています。つまり、この映画の音楽は、「ドキュメンタリー番組の音楽」と「再現ドラマの音楽」が無秩序に混在してしまっているのです。

例えば『2199』第12話で島くんが観ていた記録映画では、明らかに本編の音楽とは毛色の異なる音楽(「ニュース映画のテーマ」)が使用されています。ここで、島くんの観ていた記録映画に、本編『2199』と全く同じ音楽が使用されていたとすればどうでしょう。本編と記録映画の区別が曖昧になってしまうことが分かります。

これを実際にやってしまったのが『ヤマトという時代』なのです。

もともと「ドキュメンタリー番組パート」と「再現ドラマパート」は同じアニメーション映像であり、そこに区別は存在しません。ですから、何らかの工夫を加えることで、そこに区別をつけてあげなければ、両者の区別が曖昧になり、一つの映画としての統一感がかえって損なわれてしまうと言えます。すなわち、これは「2205年のドキュメンタリー番組」なのか、「普通の総集編」なのかが分からない。映画の本筋とは関係のない”分からない”は、場合によっては観客にストレスを与えてしまいます。

『2199』第12話の記録映画であれば音楽を変える、エフェクトをかける。『2202』第15話などの回想シーンであれば、これまたエフェクトをかける。異なる時間軸の映像を一つの映画にまとめる時は、このような工夫が欠かせません。『ヤマトという時代』は、その点をややおろそかにしてしまったのではないでしょうか。

対策としては、『2199』第12話の前例に倣って、例えば「ドキュメンタリー番組パート」の音楽と「再現ドラマパート」の音楽の作風を思い切って変える手もありますし、あるいは「再現ドラマパート」では全く音楽を流さない、という手もあります。とはいえ、あまり現実的ではないと言われればそれまでです。

いずれにせよ、異なる時間軸の映像とセリフが明確な区別なく流れ込むこの映画は、私にとっては少し居心地の悪い映画だったのです。この点がもう少し整理されていれば、私の中での評価はもっと上がったな、と思ってしまいますね。