こんにちは。ymtetcです。
設定考証の重要性は今や共通認識だと思いますが、最近になって思うのは「誠意としての設定考証」です。
例えば『silent』は、物語の主題は「相互理解」「すれ違い」といった普遍的なテーマで、題材として聴覚障害を"用いている"作品だと思います。しかし、この作品が『すずめの戸締まり』のように軽薄な印象を与えないのは、それなりに設定考証がしっかりとしているからです。
一方、『すずめの戸締まり』は設定考証どころか「地震は人の手で防げる」という根本的に非科学的なファンタジー設定を取り入れていることから、私には軽薄な映画に見えました。『silent』の登場人物が、「私に耳を治すことはできない」と語るのと対照的です。『すずめの戸締まり』は、『silent』でいえば「魔法の力で音が聴こえるようになったり、聴こえなくなったりする」と設定したようなもの。これだけでも、あの映画が災害に対する誠意を欠いた作品であることが伝わるのではないでしょうか。
さて、『宇宙戦艦ヤマト』に戻って考えた時、今思えば良くなかったな、と思うのが『2202』です。
『2202』には難病の加藤翼くんが登場しますが、彼の病気に大した設定考証はない。それなのに、彼の病気はガトランティスと加藤三郎の取引によって治るのです。しかも、謎の"薬"によって。
先ほども述べたように、『silent』がやっている物語も、結局は聴覚障害を題材にしているだけで、ストーリーだけで言えば題材は別のものであってもいい程度のものだと思います。
なので、『2202』が加藤翼の難病を題材に加藤三郎のドラマを作ったことそれ自体には、大きな問題はないと考えます。
問題は、『2202』の作り手が、難病に対してどれほどの誠意を持って取り組んだか、ということです。設定考証のディテールか足りなかったという意味では、少なくとも誠意を欠いていた、と言えるのではないでしょうか。
突き詰めると、どこまでもクレームがつけられそうな話ではありますが、要するに設定考証とは、題材に対する誠意なのだと考えます。
それを欠いたままでも作品は成り立ちますし、全ての作品が完璧に設定考証を行うべき、とも思いません。特に『2202』は難病を主題とした作品ではないので、ほぼ言いがかりに近いな、とも思います。
とはいえ、「誠意を欠いた」という事実は間違いなくある、と考えます。『2199』がとっていた路線は、極めて誠実だったと思いますね。