ymtetcのブログ

偶数日に『宇宙戦艦ヤマト』を考えるブログです。

『ヤマト2205』に向けて、克服したい課題

こんにちは。ymtetcです。

『2199』『2202』がサブスクに参入した関係か、ヤマトの話題がにわかに盛り上がってきました。また昨日は、『2205』プレスリリースの表紙が一般公開されたこともあり、いっそうの盛り上がりを見せていました。

さて、サブスクへの『ヤマト』参入で注目を集めているのは、どちらかと言えば『2202』の方でしょう。全国ネットで地上波テレビ放送された『2199』に比べ、元々の知名度は『2202』の方がはるかに劣っていたはずです。ところがサブスクになると、「『2199』の続編」としてメニューに並ぶのですから、必然的にこれまでよりも注目度が上がってくるというものです。

ですが、『2202』には種々の課題がありました。今日は『2205』に向けて、『2202』が抱えた課題について考えていきます。

『2202』が抱えた課題として今回挙げておきたいのが、「一体だれの作品なのか明確になっていなかったこと」です。

「副監督が影の総監督だ」という話もありましたが、『2199』では「出渕版ヤマト」としてある程度明確になっていたのに対して、『2202』ではその点があまり明確ではありません。「福井版ヤマト」なのか、「羽原版ヤマト」なのか、はたまた「小林版ヤマト」なのか……。

こう読むと、ファンの受け止め方の話にも見えますが、必ずしもそうではありません。

例えば、小林さんが『2202』を振り返る時にしばしば言及する話に、「脚本/科学考証との意見の相違」がありました。

それぞれの感性をもったクリエイターが集まって一つの作品を作るとなれば、意見の相違が出てくるのは自然な流れです。問題は、『2202』にその意見の相違をまとめあげる立場の人間がいなかったことにあります。

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一年前、私は加藤三郎の戦死問題を取り上げて、こんなことを述べていました。

小林さんが不満をぐっとこらえ、脚本の意図を最大限に汲んで描写するか、脚本チームが中核スタッフの意思を尊重し、加藤三郎の戦死を丸ごとなくして作り変えるか。

この二つで激論を交わすのが理想的な、視聴者目線に立った作劇だと私は考えます。

加藤三郎を戦死させまいとした小林さんの判断と、加藤三郎を戦死させようとした福井さんたちの判断は、どちらが正解と言い切れるものではありません。

だからこそ、ここに、両者の意見の相違をまとめ上げることのできる存在が必要だったのだと考えます。一年前の私が書いているように、『2202』にはあまりにも妥協が多過ぎました。妥協妥協を積み重ねた作り手の息苦しさは、必ず受け手に伝わります。

「〇〇がヤマトを無茶苦茶にした」と言われたっていいじゃないか、そう私は思います。なぜなら、誰かが好き勝手に骨を通した作品ならば、少なくとも妥協妥協を積み重ねた作品にはない、一種の清々しさがあるからです。批判を浴びるか称賛を浴びるかは分かりませんが、最低限、評価の難しくない作品にはなるでしょう。

『2205』に向けても、色々なスタッフが色々な意見を出していると思います。「これはファンに怒られるよな」……そんなアイデアも出ていることでしょう。ですが、あまりファンの声を気にしすぎても、ましてや仲間であるはずのスタッフの意見を気にしすぎても、完成するのはどこか息苦しい作品です。

道に迷った時に立ち止まることは大切ですが、最後の決断は、誰かのためではなく自分自身のためであってほしいと思います。そうやって、作品づくりを楽しんでほしい。仕事にそれを求めるのは幻想ですが、やはり楽しむことが、楽しいコンテンツを作るために大切なことだと私は思います。

『2205』には、「これは〇〇版ヤマトだ!」と言えるだけのエネルギーが備わっていて欲しいものですね。