こんにちは。ymtetcです。
前回の記事では、『宇宙戦艦ヤマト』第24話「死闘!神よ、ガミラスのために泣け!!」における古代進の語りは、「人間は互いに『命の大事さ』を知っているのだから、『愛し合うこと』をしなければならない」という趣旨であったと述べました。
この「命の大事さを知ること」=「愛を知ること」といった構図は、『宇宙戦艦ヤマト』から『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』に受け継がれ、『さらば』を原作とする『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』にも繋がっていきます。
その点においては、『さらば宇宙戦艦ヤマト』、そして『ヤマト2202』は、初代『宇宙戦艦ヤマト』のテーマ性を、(一部分にせよ)受け継いだ作品であると言えます。
『さらば宇宙戦艦ヤマト』のクライマックス
『さらば』のクライマックスを飾ったのは、ズォーダーと古代のこんなやり取りでした。
ズォーダー「どうだ、わかっただろう。宇宙の絶対者は唯一人、この全能なる私なのだ。命あるものはその血の一滴まで俺のものだ。宇宙は全て我が意志のままにある。私が宇宙の法だ、宇宙の秩序だ。よって当然、地球もこの私のものだ」
古代「違う! 断じて違う! 宇宙は母なのだ。そこで生まれた生命は、全て平等でなければならない! それが宇宙の真理であり、宇宙の愛だ! お前は間違っている! それでは、宇宙の自由と平和を、消してしまうものなのだ! 俺たちは戦う! 断固として戦う!」
「命」は「俺のもの」であると語るズォーダーに対し、古代は「生命は、全て平等でなければならない」と説きます。そして古代は、「命ある限り」ズォーダー、ガトランティスと戦う道を選び、最後には死を迎えます。
ではなぜ、古代はここまで追い詰められたのでしょうか。
「喪失」を植え付け続けた『さらば』
『さらば』において、古代は多くの仲間を失います。
大きな……大きな代償だった。艦長……真田さん……斉藤……コスモタイガーっ……!
言及はされていませんが、最愛の人・森雪をも古代は失っています。
『さらば』の終盤、古代は徹底的に「喪失」を味わい続けます。
「命の大事さ」を知る古代進
ここで、第一作『ヤマト』第13話に立ち返りましょう。
ガミラスの攻撃によって両親を失った古代進は、「命の大事さ」を知っています。
そして、「貴様も人間なら、命の大事さを知れーっ!」の言葉に表れているように、「命の大事さ」を知ることは「人間」にとって当然である、との意識を抱いています。
だからこそ、「命の大事さ」のあまりガミラスを滅ぼし、自分もまた、「命の大事さを知らない」かのような行動をとってしまったことに、古代はショックを受けたのです。
地球の人も、ガミラスの人も、幸せに生きたいという気持ちに変わりはない。なのに、我々は戦ってしまった……! 我々がしなければならなかったのは、戦うことじゃない。愛しあうことだった……! 勝利か、クソでも食らえ!
「喪失の悲しみ」の前提にある「命の大事さ」
『さらば』で古代が味わってきた「喪失」は、とても悲しいものでした。
ではなぜ、「喪失」は悲しいのでしょうか。
背景にあるのは、人間の「愛」。すなわち、愛ゆえに感じる「命の大事さ」です。
古代は「命の大事さ」を知る人間です。だから『さらば』の「喪失」も、古代にとっては、とてもとても悲しい出来事であったことでしょう。
「命の大事さ」を知らない理不尽な暴力
その「喪失」を古代に味わわせたのは誰か。それがズォーダーであり、ガトランティスでした。
「命あるものはその血の一滴まで俺のものだ」と語るように、ズォーダーは、他者の「命の大事さ」を理解しようとはしません。そしてズォーダーは、その自己愛のままに宇宙を征服し、理不尽な暴力を浴びせ続け、「命」を奪い続ける。
だから、古代は許せないのです。ズォーダーは、「命の大事さ」を理解せず、ガミラスが彼の両親を奪っていった時と同じように、理不尽な暴力で命を奪う。
違う! 断じて違う!
宇宙は母なのだ。
そこで生まれた生命は、全て平等でなければならない!
それが宇宙の真理であり、宇宙の愛だ!
お前は間違っている!
それでは、宇宙の自由と平和を、消してしまうものなのだ!
俺たちは戦う! 断固として戦う!
古代のズォーダーに対する怒りは、旧『ヤマト』13話でガミラス捕虜に向けた怒り、24話で自分自身に向けた怒りに通底しています。「宇宙は母なのだ。そこで生まれた生命は、全て平等でなければならない!」。これは古代進が両親を失った日から、ガミラス人との出会い、ガミラス本土決戦を経て辿り着いた、唯一の答えであったことでしょう。だから古代は、自信満々に「宇宙の真理」と言い切ってしまったのでしょうね。
このように、『さらば』における古代進の語りは、第一作『ヤマト』で描かれた古代の生い立ちと、第13話・第24話で描かれた古代進の怒りから繋がる、シリーズとしては一種の集大成的なセリフであったと言えます。