『さらば宇宙戦艦ヤマト』とは、『2202』とは何だったのか
こんにちは。ymtetcです。
今日は前回の記事の続きです。
- 前回のおさらい
- 『さらば宇宙戦艦ヤマト』とは「理想と現実の葛藤」の克服物語
- 『宇宙戦艦ヤマト2202』企画メモにおける旧作『ヤマト』『さらば』分析
- 『宇宙戦艦ヤマト2202』も「理想と現実の葛藤」克服物語だけれど
- 『さらば』と『2202』の違いとは
- おまけ
前回のおさらい
まずは、前回の記事をおさらいしましょう。
前回は、これまで考えてきたリメイク版『宇宙戦艦ヤマト2202』の物語解釈と合わせて、資料から、『さらば宇宙戦艦ヤマト』はどのような物語だったのかを検討しました。そして『さらば』も『2202』も、前作で描かれた「愛」(「相互理解」)=「理想」と「現実」の間にある葛藤を描いた作品だった、と結論づけました。
では再度、西崎さんの言葉を引用しながら話を展開していきます。
『さらば宇宙戦艦ヤマト』とは「理想と現実の葛藤」の克服物語
テーマとして考えたのは、”愛”です。前作で愛というものが最後にでてきたけれど、非常に抽象的にしか描かれていない。これに対して、いわゆる定義づけをしよう。そう考えたんです。つまり、人間は戦うべきではなく愛すべきだといっても、それはあくまで理想です。じゃあ、この理想を夢見ていくのであれば、それに対して、いま、我々は何をしなければならないかということですね。
いうなれば”愛の実証”とでもいうべきものです。たとえば、愛するもののために自分の命が賭けられるかというようなことですね。愛=平和を乱すものに対しては、われわれは命を賭けて戦わなければなりません。これは決して戦争を肯定するものではなく、これこそが愛に向かうわれわれの姿勢であり、実体化された愛ではないだろうかというのが、パート2の基本テーマです。ヤマトはこのテーマ=愛をしょって、みんなに見守られながら宇宙空間へ消えていくというわけです。
(『ロマンアルバム さらば』90頁。下線は引用者。)
西崎さんの言葉によれば、「パート2」すなわち『さらば』に対する西崎さん(たち)のアプローチは以下の2点に集約されます。
- 前作の終盤に提示された「愛」とは具体的に何か、を明らかにする。
- 平和を乱すものに対しては命を賭けて戦わなければならない、というメッセージを描き出す。
この「平和を乱すものに対して命を賭けて戦う」というメッセージは、単に自己犠牲的な「死」のみではない点に留意しておかなければなりません。
『さらば』には、以下のセリフがあります。
古代:しかし、世の中には、現実の世界に生きて、熱い血潮の通う幸せをつくり出す者もいなければならん。君たちは、生き抜いて地球に帰ってくれ。そして俺たちの戦いを、永遠に語り継ぎ、明日の素晴らしい地球をつくってくれ。……生き残ることは、時として死を選ぶより辛いこともある。だが、命ある限り、生きて、生きて、生き抜くこともまた、人間の道じゃないのか。
(『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』より)
『さらば』は明日の素晴らしい地球、すなわち現実の世界の「平和」を守るために、生き抜くことの重要性も説いています。「命を賭けて戦う」とは死ぬことだけではなく、生きて戦うこともまた「命を賭けて戦う」ことなのだというメッセージでしょう。
以上のことから、『さらば宇宙戦艦ヤマト』とは、
「戦うべきではなく愛すべきだ」という「愛」=「理想」に対して、この理想に反する存在には断固として、命を賭けて戦う。
という「理想と現実の葛藤」の克服を描いた物語だったと総括しておきます。
次に、福井さんの旧作に対するアプローチを見ていきます。
『宇宙戦艦ヤマト2202』企画メモにおける旧作『ヤマト』『さらば』分析
「かつて、その存在をもって日本中の若者に”愛”という言葉を意識させた艦がいました」という書き出しに始まる福井さんの「企画メモ」は、旧『ヤマト』における”愛”の分析からスタートします。
かつて、その存在をもって日本中の若者に”愛”という言葉を意識させた艦がいました。
熾烈な”愛”でした。滅亡の危機に瀕した故郷を救う、至極当然の祖国愛から始まったことが、敵との殲滅戦の中でその虚しさに気づかされ、たとえ異星の者たちとであっても愛しあう道を模索するべきだったと後悔の涙を流すに至る。人類という種族の垣根すら超えた”愛”、言わば宇宙愛とでも呼ぶべきものに衝き動かされるようになったその艦は、二度目の戦いでさらに強大な敵との対決を余儀なくされ、”愛”という概念の強度を証明するためについには自らの命を差し出してみせたのです。
それは”愛”の対極にあって世界を統べる力の論理──弱肉強食、競争社会といった言葉に集約される抗いようのない論理が、”愛”というヒューマニズムの極致によって対消滅させられた瞬間でした。
(「『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』(仮)企画メモ」『シナリオ編』219頁。)
『宇宙戦艦ヤマト』の最初の航海は「故郷を救う」という「祖国愛」の一つの具現であり、その「祖国愛」が異星人の「祖国」を滅亡させるに至って、「宇宙愛」へと発展した。ここまでが第一作における”愛”である。そして、第二作は、その”愛”の対極にある存在が”愛”によって対消滅させられる物語である──福井さんによる分析の要点は、ざっとこんなところでしょう。
さらにもう一か所、読んでいただきたい箇所があります。
英語のLOVEとは重さも質感も異なる、日本人には口にするのもためらいがあった”愛”という言葉の再定義と復権、それこそがブームを引き起こした原動力です。
(「『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』(仮)企画メモ」『シナリオ編』219頁。)
我々が今一度”愛”をテーマに据える根本理由は、今という時代において、かつてヤマトが発信した”愛”の再定義と復権こそが急務であるという確信に他なりません。
(「『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』(仮)企画メモ」『シナリオ編』220頁。)
ここでは、”旧作の第一作と第二作とは「”愛”という言葉の再定義と復権」であり、それがブームの原動力となった。だから我々も同じことをやる。”ということが語られています。
”第一作は「祖国愛」が「宇宙愛」に発展する過程であり、第二作はその「宇宙愛」の具体化(=再定義と復権)である”という大きな枠組みを提示している点が、福井さんの分析のひとつの特徴です。
『さらば』の分析に関しては、福井さんは「死」に強く囚われているきらいがあるものの、概ね西崎さん(たち)のメッセージを踏まえて、そこから一歩進んだ分析をしようとしています。第一作を受けての第二作である、そして第二作は「”愛の再定義」である、という枠組みが意識されており、本編だけでなく関連書籍等からも多角的に分析されているらしきことが伺えますね。
ここまでを見ていくと、『2202』は『さらば』を半ば実証に近い形で分析した上で構想されていた、と言っても過言ではないと思います。
しかしながら、その上で、『2202』と『さらば』には相違点がありました。
以下は、それについて見ていきたいと思います。
『宇宙戦艦ヤマト2202』も「理想と現実の葛藤」克服物語だけれど
先ほど『さらば』を”「理想と現実の葛藤」の克服を描いた”と総括しました。
「理想と現実の葛藤」とは、主人公が抱く「理想」に反する存在が「現実」に現れ、その存在と直面することにより主人公に降りかかる「葛藤」のことです。これを「命をかけて戦う」ことで克服したのが、旧作『さらば』の物語でした。
こう見ていくと、『2202』もまた、”「理想と現実の葛藤」の克服”を描いた物語です。
『2202』でも、主人公の「理想」とは”愛”と総括すべきものでした。それは『2199』を踏まえた「相互理解」や「波動砲は使わない」といったものでしたが、それを”人間の感情”と定義して、”愛”として言語化したことに『2202』の特徴があります。
そして、地球連邦政府やガトランティスといった古代進=主人公の「理想」に反する存在が「現実」に現れ、主人公に「葛藤」が降りかかる。それを克服する。
ここまでは、『2202』と『さらば』は極めて似通っています。
ですが『2202』は「葛藤」をどう克服したのか。
ここからが、『さらば』と『2202』を分けている部分です。
私は、『2202』では、主人公の「葛藤」は”認められる”ことによって克服されたと考えます。
どういうことか。
真田の演説を読みます。
「……ある男の話をさせてください」
(略)
「彼はあなたです。夢見た未来や希望に裏切られ、日々なにかが失われるのを感じ続けている。生きるため、責任を果たすために、自分で自分を裏切ることに慣れて、本当の自分を見失ってしまった」
(略)
「昨日の打算、今日の妥協が未来を、自分を食い潰してゆくのを予感しながら、どこに向かうとも知れない道を歩き続ける。この過酷な時代を生きる無名の人間の一人……あなたやわたしの分身なのです」
(略)
彼と彼女を救うことで、自分もまた救われると思えるなら……」
(略)
「この愚かしい選択の先に、もう一度、本当の未来を取り戻せると信じるなら、ぜひ二人の救出に票を投じてください」
(『シナリオ編』214~215頁より抜粋。)
古代進の「理想」は、正しいことだと皆が分かっている。他人と理解し合おう、愛し合おう、戦争はしないでいよう、大量破壊兵器なんて使わない──全部正しいことだと分かっている。でも、「理想」をぐっと抑え込んでいかなければ、「現実」の世界では生きていけない。大切にしている存在を生かすこともできない。そうやってぼくたちは「理想」を抑圧してきた。もしかしたら、自分に大切なものを生かすために、他人に犠牲を強いてきたかもしれない(「悪魔の選択」のように)。
それが間違っていることだと知りながら──。
古代進は、自分を誤魔化せない男だった。だから、自分自身を否定し続ける「現実」に耐えられずに、死んでいった。でも、彼の心にあった葛藤は、彼が味わってきた苦しみとは、皆も味わってきたものではなかったか。それが、ぼくたちの抱える「生きづらさ」の正体なのではないか。まだ彼が生きているなら、彼にまだ少しでも生きる気持ちがあるならば、皆で彼を救いにいこう。それが、ぼくたちが「現実」の名の下に否定し続けてきた「理想」を肯定することになるんだ──。
ヤマトだ。地球人類の支持のもと、時間断層と引き替えに高次元世界に飛び込んできた宇宙戦艦ヤマトが、古代と雪のもとに近づいてくる。
(「最終話の流れ」『シナリオ編』286頁。)
これが、私の考える『2202』の”「理想と現実の葛藤」の克服”です。
”古代は「理想と現実の葛藤」に耐え切れずに死を選んでしまったけれど、その苦しみは皆同じなんじゃないか、だから、みんなで彼を救いに行こう。”
「君たちが羨ましい」⇒真田の演説⇒国民投票⇒ヤマトの浮上、という大きな流れは、こういったメッセージをもったものだったと私は考えます。
やや冗長な説明になってしまいましたが、こうすることで、『さらば』と『2202』の違いが改めて浮き彫りになったのではないでしょうか。
次は、それを見ていきます。
『さらば』と『2202』の違いとは
『さらば』と『2202』の大きな違いは、「古代の死」をどう表現するか、ということにあったと考えます。
『さらば』で古代の「死」は、葛藤を克服する手段として描かれました。
現代の人は、自分たちの世界を守ることをしない。平和を獲得しようとしない。それには戦いが生まれる。意思と行動力をもつことなんです。水と安全はタダだ、という観念があるんですね。平和を求める戦いの基盤は、隣人を、親兄弟を、すべての人を愛することにあるのです。
(『ロマンアルバム さらば』96頁。)
と舛田利雄さんが語っているように、です(舛田さんが「死を美しいものとはしたくない」「特攻隊のように描きたくない」と語っている点には留意しておいてください)。
一方、『2202』において、古代の「死」は、むしろ「生きづらさ」に対する「救い」として描かれました。
つまり、自殺です。これは、ズォーダーが「死」を「大いなる愛」とし、「救い(死)を受け入れろ」と語ったことにも符合します。
これは明確な、『さらば』と『2202』の違いなのではないでしょうか。
私は、ここに福井さんが考える『さらば』以降の時代観が反映されていると考えます。
福井さんは、最終章のパンフレットでこう語っています。
(略)理想を持たされた若者が現実に押し潰され、最後の抵抗として死を選ぶ物語。この苛烈さはそのままにして、一度は”向こう側”に行った古代が再び帰ってくるラストを当てはめた時、当の古代はなんと言うだろう?
筆者に聞こえてきたのは、「もう勘弁してくれよ」という疲れきった声でした。
(略)すっかり大人になり、現実に組み伏せられる痛みを痛みとも感じなくなってしまった現在の(福井さんの──引用者注)身には、「だよな」と応じるよりなかったのです。
死ななかったというだけで、彼の理想をねじ伏せた現実はこれからも続く。(略)
(略)震災後……否、バブル崩壊以来、自覚的にも無自覚的にも閉塞してしまった多くの日本人の心性を託して、古代を「鬱抜け」させることができれば……と、かような大望を抱いて『ヤマト2202』は出航しました。(略)
(『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち 第七章 新星篇 劇場用パンフレット』イントロダクションより)
すなわち、『さらば』の時代には「死」を「戦い」の手段として描くことができたかもしれないけれど、「生きづらさ」が蔓延したバブル崩壊以後の日本社会では、むしろ「死」は「救い」になってしまったのではないか……という時代観です。
「自分にとって生きづらい世の中をどう自分の中で受け止め落ち着かせるか。作り手の原点はそこにある」
「小説の書き方を学んだ」一冊~作家・福井晴敏【ワールドビジネスサテライト(WBS)】|テレビ東京ビジネスオンデマンド【BOD】
と語る福井さんの感性が、そして『さらば』公開から40年の間に日本社会で起きた変化を見つめた福井さんの時代観が『2202』に反映され、『さらば』と『2202』の違いを生んだ、と私は考えます。
以下は余談です。
おまけ
「生きづらさ」という言葉は、「ロスジェネ」というキーワードと極めて密接な形で関わっています。
派遣切り、ワーキングプア、いじめ、自傷、自殺…。こんなに若者たちが「生きづらい」時代があっただろうか。ロスジェネ=就職氷河期世代に属する著者が、生い立ちから現在までの軌跡と社会の動きを重ね合わせ、この息苦しさの根源に迫った書き下ろし力作。
こうして見た時に、『2202』の内包したテーマが真に”響く”のは、実は「ロスジェネ」世代なのではないか、という仮説が浮かんでくるのです。そして、その仮説がもし正しいとすれば、『2202』には根本的な問題があったということになります。
現在の「リメイク・ヤマトファン」の中核は、ヤマト世代とその子どもたちの世代です。
ですが、これらの層は絶妙に「ロスジェネ」世代とは噛み合っていない*1。ざっくりと言えば、ヤマト世代とその子どもたち世代の中間に分布しているのが「ロスジェネ」なのですね。
ちなみに福井さん自身は1968年生まれなので、ヤマト世代と「ロスジェネ」世代のちょうど中間ということになります。
このあたりの噛み合わなさが、本作におけるひとつの問題点だったのかもしれません。