(注意)この記事を読む前に、1月6日の記事をご覧になってください。
よろしくお願いします。
こんばんは。ymtetcです。
ヤマト界隈が荒れています。その原因がこれです。
続きを読むこんばんは。ymtetcです。
先日投稿したこの記事では、ヤマトシリーズは第一作と第二作で「開」かれ、第三作以降は「閉」じていったと結論付けました。
今日は、これをリメイクに当てはめてみたいと思います。
続きを読むこんばんは。告知です。
続きを読む2019年3月21日より広島マリーナホップにて『宇宙戦艦ヤマト2202』の世界が体感できる展示型イベント開催決定!往年の『ヤマト』ファンはもちろん、本作を知らない方にも、お楽しみいただける展示イベントですので、是非ご家族やお友達ともお越しください!詳細→https://t.co/NR1Rx8FgsI#yamato2202 pic.twitter.com/vTUJqAKLFx
— 宇宙戦艦ヤマト2202製作委員会 (@new_yamato_2199) December 27, 2018
こんばんは。ymtetcです。
昨日、こんなコメントをいただきましたので、リメイクの話は後に回してみます。
「ガンダムシリーズのように、複数のストーリーを並行して作ることはできないか?」(こん 様)
これは重要な課題です。
単に複数の世界観を並行させるだけであれば、既に復活篇と2199が実行しているとも言えますし、それが現に、2202へ至るまでの広がりを見せました。
ガンダムシリーズ的な展開をヤマトが考えた時に、どうしても課題となるのは「ヤマト」というアイコンです。ヤマトの場合は、「宇宙戦艦ヤマト」を絶対化し過ぎたと思います。いかにムサシだ、銀河だといっても「宇宙戦艦ヤマト」は作品中に一つしか存在しない・できないわけで、となると「宇宙戦艦ヤマト」の登場しない『宇宙戦艦ヤマト』を作ることが難しくなってしまうのです。
出渕さんが頻繁に構想を口にし、ファンも前向きに捉えていた前2199のスピンオフ作品が実現どころか具体化さえしなかったのも、この事情が背景の一つになっていたからだと思います。
以前にもここで書いたことがあるような気もするのですが、ヤマトシリーズにガンダム的な広がりを持たせるには一つ、ウルトラC的な手段があると考えています。
続きを読むこんばんは。ymtetcです。
昨年の2月にこのブログを始め、春夏秋冬という一年のスケジュールの中で、それなりに毎日記事を書いてきました。そして今、初めての12月に直面しています。
そんなに長時間かけて頑張って書いているわけではありませんし、コメントも返信を待っていただいている現在ですから*1、作業自体はそれほど負担ではありません。
ただ、忙しくなってきたということでどうしても逃れられない壁──アイデアが浮かばないという課題──に直面しています。
最近、それが負担に転じかねない気配を自分の中で感じました。
ということで、ちょっとだけコンセプトを変更してみます。
「一日一回、宇宙戦艦ヤマトを考えるブログ」。
アイデアは浮かんだり、消えたり、正解だったり、間違っていたり。それでもその日、何かを考えることができたら。そんな感じの空間にしたいなと思います。
では、今日は昨日の続きを考えていきます。
*1:いつもコメントありがとうございます。
こんばんは。ymtetcです。
世の中娯楽作品というものは山ほどありますが、今日タイトルに挙げた論点で二分することもできましょう。
具体例を言うと早いので、とりあえず庵野秀明作品と新海誠作品を取り上げてみます。
『シン・ゴジラ』は社会に対して開いた作品であったからこそ、社会現象となることができました。
一方、『エヴァンゲリオン』シリーズは極めて閉じた作品です。いえ、元々は開いた作品ではあったのですが、テレビ版の終盤の展開は庵野秀明ワールドに閉じてしまっており、社会から見れば置いてけぼりにされた感がある。
しかしだからこそ『エヴァンゲリオン』シリーズは特別になった、とも考えられます。
注意すべきなのは、『エヴァンゲリオン』の場合はその閉じた世界観に惹かれ、ファンになった人も数多くいるということです。
『エヴァンゲリオン』のリビルド作品である新劇場版は、4部作の前半2作品は開いた作りがされており、こちらもヒットしました。
しかし3作目となった「Q」では、まさしく「旧」来の閉じた作劇に回帰した(意識的・無意識的にかかわらず)ことにより、賛否両論が巻き起こった。それでも、否定論ばかりで埋め尽くされなかったのは、閉じた作劇に対して一定程度のファンが付いていたからだと言えます。
このように、閉じた作品と開いた作品にはそれぞれのメリットがあります。ただ、閉じた作品というのは観客を選ぶので、ヒットというゴールを考えれば、開いていた方が得策です。
これは、同様に『君の名は。』で一躍社会の注目を浴びるようになった新海誠作品にも言えます。
彼の作品がこれまで大ヒットを記録してこなかったのは単に才能が見逃されていたからではなく(既に一定程度の評価は得ていた)、これまでの彼の作品達が、新海誠の世界観に閉じていたからです。
これは『君の名は。』という1大ヒットを記録しても、なお『秒速』に代表される彼の過去作品は再評価されなかった、ということが示している通り。
これまでの新海誠作品は彼自身の世界観に閉じてしまうような作風が特徴的であり、それ故にファンを獲得していた側面もあります。
一方『君の名は。』は、彼自身の世界観も色濃く残りながら、むしろ社会に開けた作品でした。
だからこそ、一部の新海誠ファンは『君の名は。』に違和感を覚えたとも言えます。
ただ、『シン・ゴジラ』にせよ『君の名は。』にせよ、大ヒットの要因になったのはそのバランス感覚にあると思います。
両者は社会に開いた作品でありながら、それぞれの従来の魅力、言い換えれば作風を色濃く残しているのです。
例えば『シン・ゴジラ』には『エヴァンゲリオン』に象徴される鬱展開はなく、『君の名は。』にも『秒速』に代表される「後味のスッキリしない」展開はありません。
一方で庵野秀明・新海誠それぞれのアイデンティティが失われたわけではなく、前者はスピード感のある演出に、後者は独特な言葉遣いや美しい風景描写にアイデンティティが残されています。
観客を選ぶ閉じた作品ではなく、幅広い客層を受け入れるだけの開いた作品で、作り手の作風を「分かる人にしか分からない」程度に残す。
長くシリーズを展開していると、良くも悪くも大ヒットを記録することが難しくなってしまいます。
その時に必要となるのがこのバランス感覚で、これはヤマトシリーズにも言えることでしょう。
こんばんは。ymtetcです。
先日の記事で、こんなことを書きました。
1を10にする任務を背負ったリメイク版は当然、既存作品のクオリティアップにリソースを割いた。だからこそ私たちの目の前にはあれだけ質の高い「宇宙戦艦ヤマト」が存在する。
10年間で6つの「新しいヤマト」を生み出した功績、10年間で3つの「質の高いヤマト」を生み出した功績は、どちらも素晴らしいものです。
作品そのものを創造する任務を遂行した旧作に対し、リメイクシリーズは作品の質向上を任務としている。どちらも与えられたタスクをこなしているので、旧作とリメイク版のクオリティ比較に意味はない。
そんな主張を込めています。
では、2202は「質向上」というタスクをこなしていると言えるのか。
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