こんばんは。ymtetcです。
先日の記事で、こんなことを書きました。
1を10にする任務を背負ったリメイク版は当然、既存作品のクオリティアップにリソースを割いた。だからこそ私たちの目の前にはあれだけ質の高い「宇宙戦艦ヤマト」が存在する。
10年間で6つの「新しいヤマト」を生み出した功績、10年間で3つの「質の高いヤマト」を生み出した功績は、どちらも素晴らしいものです。
作品そのものを創造する任務を遂行した旧作に対し、リメイクシリーズは作品の質向上を任務としている。どちらも与えられたタスクをこなしているので、旧作とリメイク版のクオリティ比較に意味はない。
そんな主張を込めています。
では、2202は「質向上」というタスクをこなしていると言えるのか。
今日はそのあたりから色々と考えてみたいのですが、そもそも2202のクオリティの良し悪しについては百人百様の評価があるべきです。
何故ならば、「作品」のクオリティをどこに求めるかによって評価が変わるからです。
単に「キャラクター」に限定しても、それは作画を指すのかデザインを指すのか、設定のディテール(ブレの有無、所属・階級などの設定)を指すのか、あるいは他の論点か。
「ストーリー」でも、それは大枠のストーリー構造を指すのか、台詞のディテールを指すのか、あるいは。
「メカニック」も、デザイン・設定のディテール(統一感はあるが、設定にブレはないか)を指すのか、メカ描写を指すのか、メカ作画のディテールを指すのか……。
とにかく、ここに挙げた以外にも多様な観点があるはずです。
今日は、様々な観点において評価されるそれらを「ディテール」と総称したいと思います。
この「ディテール」、2202はしばしば2199と比べて甘い、劣っていると言われています。
例えば2202のキャラクター作画は2199の出渕総監督が「やりたくない」と述べていたアップ画を連発しており、ここを指摘して「ディテールが甘い」と言う人もいます。
他にもメカニックでは、2199で西井さんが担っていた手描きによるディテールアップがないことを指摘して、「ディテールが甘い」と言う人もいるでしょう。
あるいは、2199以来の設定が表面上ですら受け継がれていないことを指摘する人もいるはずです。
このような「ディテールの甘さ」については、制作側の立場に立って考えてみると、正直仕方ない側面もあります。
先日枝松聖さんがツイッターで述べておられたように、現実として2202には2199よりも時間がない。
もしかしたら、2199と比べて劣っているという「結果」は多少の努力で変えられるものではないのかもしれない。
とすると、2199との比較だけで作り手を批判することにはアンフェアな感すら覚えます。
しかし私が気になるのは、そのような「ディテールの甘さ」を「旧作らしい」「ヤマトらしい」と称して正当化する風潮が一部に蔓延していることです。
リメイクシリーズが質向上を任務の一つとしている以上、「ディテールの甘さ」を正当化することは、作品の存在意義を揺るがすことへと繋がっていきます。
まさしく羽原監督の仰るように、2199と同じ仕事ができないのは仕方がないとしても、2202なりに現代に相応しいハイクオリティなヤマト作品を追求することが重要なのです。
同じ「2199よりディテールの甘い」作品でも、その系譜を従来のヤマトに求めて正当化するのと、自分なりに現代ヤマトを追求するのとでは、作品の意義深さが大きく異なります。
前者は、単に時計の針を巻き戻しただけ。次世代に何も残しません。復活篇が従来、反省の対象にすらなっていなかった背景もここにあります。
後者のアプローチならば、上手くいくかどうかに関わらず、ひとつのモデルケースとしての価値を有した作品になるでしょう。
2202がどちらかに属するか? それは私には分かりませんが、少なくとも一部の2202ファンに前者の風潮が蔓延しているのは間違いない。
危惧すべきは、その風潮が作り手にも蔓延することです。
2199以来のキャラクターの階級設定を据え置き、艦隊司令と艦長を置くというごく単純な艦隊描写を旧作のスタイルへと逆行させた2202に、その風潮が存在しないとは言い切れませんが。
それぞれがそれぞれのアプローチでヤマトの現代化に挑戦する。そんな向上心こそ、リメイクシリーズには必要なのではないでしょうか。