こんにちは。ymtetcです。
いきなりですが、「刀剣乱舞」というゲームを始めました。「艦これ」の刀剣バージョンだと考えてください。
「刀剣男士」を集めて育てるシンプルなシステムで「作業ゲー」とも言われる作品ですが、「本丸」の仕事に刀剣男士を割り振るなど、キャラクターへの愛着を育んだり、その愛着を表現したりするための、細やかなディテールが光っているゲームでした。
さて、ここから『ヤマト』が学びたいのは、本筋ではない部分で日常を感じさせるシステムを用意すること、の重要性です。
続きを読むこんにちは。ymtetcです。
歴史的名作は、そのプロットに魅力がある場合は多いと思います。
今日はこれについて考えます。
例えば『宇宙戦艦ヤマト』のプロットの場合、「異星人の攻撃によって滅亡まであと1年」との点に秘密があると考えます。
すなわち、第一作ヤマトは「地球に異星人が攻めてくる」との定番のプロットを踏襲しつつ、地球がその異星人に敗北した後の物語を描いているのです。ヤマトの第一話が少なからず人を惹きつけたのは、定番のプロットをベースに、やや捻ったアプローチをとったことが一つの要因でしょう。
さて、ここから、これからのヤマトに向けて二点、指摘できます。
一つに、このアプローチそのものは、何度でも踏襲できるということです。
定番のプロットに対して「その先」を描く。この考え方そのものは、「定番のプロット」をその都度入れ替えれば何度でも利用できますよね。
思えば『さらば』がヒットしたのも、第一作という物語に対して「その先」を描いたからではないでしょうか。また、第一作が単純な「地球に異星人が攻めてくる」プロットではなかったからこそ、「地球に異星人が攻めてくる」という『さらば』のプロットも、ある意味で新鮮だったのではないでしょうか。
もう一つ、第一作や『2199』の前日譚が「定番のプロット」足りえる可能性も指摘できます。
第一作や『2199』が、「地球に異星人が攻めてくる」の先を描くのであれば、その前日譚は、「地球に異星人が攻めてくる」という定番の物語です。定番であるということは、それだけで一定の価値を持ちますよね。
その「定番」の枠組みを利用すれば、あるいはテレビシリーズ級のスケールの大きな物語を展開する余地も生まれるのではないでしょうか。
このように、定番と非定番を意図的に使い分けることが大切です。しかし私としては、やはりヤマト第一作の魅力は「定番のその先」を描いた意外性にあると思います。
「定番」は決して、「地球に異星人が攻めてくる」だけではありません。他の「定番」を用いてその先を描くことも、不可能ではないはずです。このアプローチを踏襲し続ければ、またいつか、かつての第一作冒頭のような、優れたプロットが生み出せるのではないでしょうか。
こんにちは。ymtetcです。
『スターブレイザーズΛ』第25話が更新されました。
今回のタイトルは「最強のセイレーネス」。リンネを指す言葉でしょう。
第17話「最強のトップネス」と対になる表現ですが、「最強のトップネス」は第22話でリンネを殺そうとしたミハイル。そう考えると理解が深まるかと思います。
とはいえ、アレクセイによれば「セイレーネスは49回前の宇宙のトップネス」。対になるというよりも初めから同じ存在であった、と考えた方がいいかもしれません。
さて、第25話は、前話でリンネがマークX(ニルヴァーナの戦艦)を破壊した場面からスタートします。どうやらセスが、これを「シナリオにない出来事」と呼んでいるようです。
トップネスたちは、第24話で登場したセイレーネスと戦っており、苦戦を強いられています。マークXを倒したリンネは、トップネスたちと合流しようとしています。
しかしセイレーネスは、一体ずつトップネスたちを行動不能にしていきました。そこでユウが体を張って局面を打開しようとするなか、勝ち筋が見えないリンネは自らの力を解放します。知性の繭が出現し、ユウは知性の繭の中へ、リンネを追いかけます。
これまでユウが見てきた夢の中では、ユウが「追いかけてくるなんて」とリンネに言われる場面がありました。まさにこの場面に繋がるシーンだと言えるでしょう。
感想としては、ここ数話に共通する「物語の収束」が引き続き見られます。さらに、序盤から展開してきた「ユウの記憶」(夢)と繋がる場面も引き続き見られ、物語が完結に向かっていることを伺わせます。
ただ今回は全体を通じて意外性……読み手(私)の感情の起伏が少ない回だったなと感じました。というのも、今回はトップネスたちが一方的に押されている、劣勢の場面が続いていたからです。そこに対してユウが体を張ることや、リンネが決断を下すことは、これまでの物語の流れや彼らの性格からして「よく分かる」。
前話は記事に起こしていませんが、父や弟の想いを継いだアレクセイの戦いと死、それを継ごうとするアビーと、自らの意志でセイレーネスと戦うトップネスたち、セスとマヤの回想など、読み手の心を動かす場面が多々ありました。
そう考えると、今回の第25話は、次回第26話(最終話?)に向けての前段階となる回だったのかなと思います。次回に期待ですね。
前回の記事で、「『3199』は前後編を3本+映画を1本のつもりで作ってはどうか」と述べました。思えば『Λ』も、奇数話は次回への振り、偶数話はその回収と位置づけて、ここまで連載を続けてきた作品です。この辺りの進め方も、あるいは参考になるかもしれませんね。
こんにちは。ymtetcです。
これまでのリメイクヤマトで、作品のタイトルに副題がつけられた新作は三つありました。『2199 星巡る方舟』『2202 愛の戦士たち』『2205 新たなる旅立ち』です。この三つは、物語の舞台を示した『星巡る方舟』と、物語の主題を示した『愛の戦士たち』『新たなる旅立ち』に分けられます。また、後者二つはいずれも福井ヤマトです。
そこで今日は、福井ヤマトの副題について考えてみます。すると『新たなる旅立ち』の方が、より純粋な「作品のタイトル」として機能していたことが分かりました。
こんにちは。ymtetcです。
今日はお休みです。
『2199』と『2205』は、同じような「より多くの人に受け入れられること」を目指した作品ですが、私はどこかに両作品の違いを感じてきました。今日は、それについて考えてみたいと思います。
『2199』と『2205』は、「より多くの人に受け入れられること」を目指す際の、"網の投げ方"が異なるのではないでしょうか。
すなわち、『2199』が大きな網を一つ投げた作品なのに対して、『2205』は小さな網をたくさん投げた作品なのです。
『2199』は「最大公約数」を目指しましたが、「最大公約数」は基本的に一つです。『2199』は、より沢山の人が受け入れられる「最大公約数」という、一つの答えを打ち出した作品だと言えるのではないでしょうか。
対して『2205』は、「新たなる旅立ち」という軸を固定しつつ、古代、土門、デスラー、薮、スターシャの物語を同時に投げて、それぞれの物語に結論を出しました。その意味で『2205』は、たくさん答えを打ち出した作品だと言えるのではないでしょうか。
同じ普遍性の高い物語でも、そのアプローチは異なります。一つの物語の普遍性を高めようとした『2199』と、一つのテーマに複数の物語を重ねることで、全体としての普遍性を高めようとした『2205』。とはいえ『2205』は前後編の短い作品でした。全7章、26話となる『3199』では、この路線の真骨頂を是非見てみたいものですね。