ヤマト2199に足りなかったもの。
それはしばしば「悲壮感」と呼ばれるもの。
しかし「悲壮感」といっても何が足りないのか、
「悲壮感」を持たせるにはどうすれば良かったのか。
今日はこの点について仮説を立ててみます。
私達は今一度「放射能」を振り返ってみましょう。
1974年の第1作目では、この「放射能」が地球を汚染し、地下都市をも侵し始めていた……と強調されています。
しかし2199では、その風味が違う。
地球を汚染しているものは曖昧にされています。
謎の植物の胞子、など。
無論「放射能」も考慮に入っているでしょう。
「放射線の方は大丈夫じゃろう」というセリフもあります。
でも、強調されてはいません。
問題は、ここにあるのではないかと思いました。
このように「放射能」が表舞台から去ることが明らかになった時、こんな意見をよく目にしました。
「震災に配慮したんだろう」
これに対しては、明確な反論があります。
「これは科学考証に基づくもので、震災より遥か前に完成したシナリオで既に反映されている」
正しい反論です。間違っていません。
ですがこの方針が、既に間違っていたのではないかと思います。
つまり私は、2199が悲壮感を持つにはもっと震災に向き合うべきだったのです。
震災以降、人々の価値観が少し変わりました。
それを細かく論ずることはできませんが、私も何となく感じていることです。
そして創作者も敏感に反応した。
例えば、脚本を大幅に変更したとも噂されるエヴァQ。
特に大ヒットした2作品は震災後だからこそ、あれだけのヒットをしたのだと思います。
もちろん、ヤマトはコンテンツとして軟弱でしたから自由はききません。急遽震災に向き合ってシナリオを書き直すといっても無理でしょう。ですから、2199スタッフが悪かったとは思いません。
しかし2199が「悲壮感が足りない」と評されたことには、震災後の観客が求める悲壮感と2199のそれが噛み合わなかったからに他ならないと私は考えます。