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偶数日に『宇宙戦艦ヤマト』を考えるブログです。

ヤマト2202と銀河:③旧作における「人類最後の希望」(その2)

◯旧作における「人類最後の希望」(その2)

  • はじめに

 少しお休みした「ヤマト2202と銀河」シリーズ、続いてはパート1と異なるグループについて考えてみます。ここに含まれるのは『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』(以下、「さらば」)『宇宙戦艦ヤマト2』(以下、ヤマト2)『宇宙戦艦ヤマトⅢ』(以下、ヤマトⅢ)の三作品です。

 2202との関連性を論じることが中心となる本シリーズですので、旧作を論じる今回においても本丸は当然「さらば」になります。ということで今回の記事ではまずヤマトⅢについて述べ、続いて「さらば」を論じます。ヤマト2に関しては「さらば」の変形なので独立しては扱わず、最後に申し添えるのみとします。

  • ヤマトⅢにおける「人類最後の希望」

 ヤマトⅢでは、銀河系中心部の星間戦争の流れ弾が太陽に直撃した結果もたらされた太陽の核融合増進によって、地球人類は滅亡の危機に陥ります。この「人類滅亡まで」というカウントダウンが復活したことやガミラス帝国の再登場から、本作は「パート1への回帰だ」などと評されることもあります。しかし、「人類最後の希望」という概念から作品を捉え直しますと、パート1とは全く異なる状況が見て取れます。地球連邦政府地球市民は危機を自覚しておらず、サイモン教授と藤堂長官が危機を主張し、ヤマトを発進させるのです。この時点でヤマトは「人類最後の希望になるかもしれない」存在ではありますが、「人類最後の希望」ではありません。

 地球連邦政府はのちに、地球の危機を認めます。ただし、ここでもまだヤマトは「人類最後の希望」ではなく「人類の希望」の一つにしか過ぎません。地球連邦政府にはアリゾナがあり、プリンスオブウェールズがあり、ビスマルクがあり、ノーウィックがあるからです。しかしそんなヤマトにも、「人類最後の希望」となる時がやってきます。それはヤマトが、惑星シャルバートでハイドロコスモジェン砲を手にした瞬間です。

 太陽の核融合異常増進を止める、その機能を持ったハイドロコスモジェン砲を手にした存在は、地球連邦でヤマトだけ。この時、ヤマトは他の誰にも担えない唯一の任務を背負ったのであり、これこそヤマトが「人類最後の希望」となったタイミングなのです。

  • このグループについて

 このヤマトⅢのように、当初は「人類最後の希望」ではなかったヤマトが、終盤にいくにつれて「人類最後の希望」と化していく、その過程が描かれているのがこのグループに含めた作品の特徴です。前回の記事で指摘した復活篇については非常にグレーで、こちらのグループに近いとも言えるかもしれません。そこは議論の余地が残された部分だと考えます。

 ここで、「さらば」を検討する前に、「人類最後の希望」とは何かを主題歌から再考してみたいと思います。この問いを考えていく上で重要になる一節があります。

 

地球を救う使命を帯びて戦う男燃えるロマン

 

誰かがこれをやらねばならぬ期待の人が俺達ならば

 『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』のオープニングにも採用されている、「宇宙戦艦ヤマト」二番の一節です。この一節には、「人類最後の希望」に必要な三つの要素が表現されていると私は考えます。

 ①「地球(人類)を救う使命を帯びて戦う」こと。

 ②「誰かがこれをやらねばならぬ」という客観的状況が存在していること。

 ③「期待の人が俺達」であることを自覚していること。

 最も分かりにくいであろう②について補足しますと、「地球人類の危機を地球政府・地球市民が自覚している」状況が存在しているということです。

 「ヤマトに期待する地球政府(あるいは市民)」と、「その期待を自覚し、自ら名乗り出るヤマト」という構図が成り立って初めて、宇宙戦艦ヤマトは「人類最後の希望」となるのではないでしょうか。

  • 「さらば」における「人類最後の希望」

 主題歌から「人類最後の希望」について捉え直してみましたが、勘の良い方であれば、上述した三要素は「さらば」のとあるシーンを念頭に置いていることが分かるのではないでしょうか。

 ではいよいよ、本丸の「さらば」を見ていくことにします。

 ヤマトⅢと共通している要素ですが、冒頭、地球は自らが危機に晒されていることを自覚していません。その理由は明確で、新造戦艦アンドロメダをはじめとする波動砲装備の艦艇が複数配備されているからです。この段階で、上述の要素②が欠けていると言うことが出来ます。アンドロメダが間違いなく地球を救ってくれると信じているからです。

 これに対して、廃艦処分となった宇宙戦艦ヤマトとそのクルー達は地球、そして宇宙に重大な危機が迫っていることをテレサのメッセージから確信し、それを確かめるために反乱者として旅立ちます。この時点で、宇宙戦艦ヤマトは「人類最後の希望」はおろか、組織的に言えば「人類の敵」にさえ近い存在に位置します。

 宇宙戦艦ヤマトはテレザートで危機を確かめ、それを地球も認識はします。②の要素は満たされた訳ですが、依然として「ヤマトに期待し、ヤマトが期待される」関係は成立していません。何故ならば地球にはアンドロメダ率いる地球艦隊があり、彼らこそ「人類の希望」だからです。ですが、ご存じのように地球艦隊は全滅し、地球は最大の危機に陥ります。

「ねぇ、ヤマトはどこ?」

 かの有名なセリフが飛び出すのは、このタイミングです。ここでもう一度主題歌を反芻してみましょう。

地球を救う使命を帯びて戦う男燃えるロマン

誰かがこれをやらねばならぬ期待の人が俺達ならば

 

「時に西暦2201年。地球は今、最後の時を迎えようとしていた。宇宙侵略を着々と進めてきた謎の白色彗星は、ついに太陽系へその魔の手を伸ばしたのだ。地球防衛軍の懸命の努力にもかかわらず、謎の白色彗星は圧倒的に強力であり、地球人の絶滅か、奴隷かを要求して情け容赦のない攻撃を繰り出してきた。地球防衛軍にとって、最後の頼みは地球防衛艦隊であったが、強大な白色彗星の前に、今や地球防衛艦隊は、壊滅してしまったのだ。人類はただ、その最後の時を待つだけだった。明日への希望はないのだろうか?そうだ、ヤマトしかない。」そして、ヤマトは白色彗星の前へ立ちはだかる。

 

 上記はパート1のナレーションを用いた私の創作です。しかし、「ねぇヤマトはどこ?」から始まる一連のシーンは、まさに「さらば」において地球政府から蚊帳の外と見なされていたヤマトが、パート1と同じ「人類最後の希望」へと復活していくシーンでもあります。パート1のナレーションがピッタリだとは思いませんか。

 そしてここに、「さらば」最大のカタルシスがあるのです。

 時代の波に押され弾き出されていたヤマトが、「期待し、期待される」「人類最後の希望」としてよみがえる。そして、「地球を救う使命を帯びて」戦い、散っていく。これ以上に素晴らしい最終回があるでしょうか。

 これぞ、パート1とは異なる形式を採用した「さらば」の特徴なのです。

 ちなみにヤマト2に関しても(変形しつつも)ほぼ同じような展開を辿っているのですが、ヤマトが最後の最後に、女神テレサへ「人類最後の希望」の座を譲るという結末に辿り着きます。「さらば」の変形ではありますが、このように「さらば」最大のポイントをヤマト以外に譲ってしまうことで、「さらば」にあったカタルシス的魅力は骨抜きにされたと言っていいでしょう。

  • おわりに

 このように、パート1と「さらば」は、「ヤマトが人類最後の希望になるタイミング」という一点で全く異なる形式の作品です。

 パート1は冒頭から「人類最後の希望」、「さらば」は終盤から。

 実は、この対比はリメイク版である2199と2202にも言えることなのです。ここを検討することを通じて、次回の「ヤマト2202と銀河」では、2199と2202の違い・2202の問題点を見ていくことにしましょう。

次回:ヤマト2202と銀河:④2199-2202における「人類最後の希望」 - ymtetcのブログ(予定変更した箇所あります)