こんにちは。
以前書いたこの記事について、いくつか補足していきたいと思います。
この記事の主旨は、あくまであのアカウントは副監督個人の<公式>であって特定の作品の<公式>ではなく、ブロックする自由は個人アカウントであれば誰のアカウントにでもある、ということでした。
- ツイッターの「公の場化」
まず今日考えてみたいことは、「ツイッターは公の場なのか?」という疑問です。
相談です。Twitterは公共の場ではないのでしょうか? - 昔の... - Yahoo!知恵袋
例えばこの知恵袋では、「ツイッターは公共の場である」という風に結論付けられています。その根拠は、インターネット上で誰でも閲覧できるから、というもの。
誰でも閲覧できる故に、公共の場である。
非常に筋の通った論理だと思います。
一方、こんな意見もあります。
公の場ではない、という意見です。
ブログ記事の主張に関しては、例えば一個人の何気ないツイートが拡散され、そのリプ欄で第三者同士による議論が交わされ、ツイート主が困惑してしまうような事案を目にしてしまうとやるせなさを覚える、という点で私も共感は出来ます。
「つぶやき」すなわち「独り言」と解釈してツイッターを利用しようとしている人が、「ツイッターは議論の場」と認識している人と出会ってしまえばギャップが生まれてしまうのは当然のことですが、前者は非公開アカウントにする等の対策もありますから、やはり後者と出会うのもやむなし、といった結論めいたものも想起されます。
このブログにも、コメントの中に「第三者が閲覧できる時点で公の場」などと、反論意見がありますね。特に
フォロワーのうち一人でも公の場であることを自覚すれば即座に公の場になるトコ
というコメント欄の表現は興味深いものでしょう。
何故ならば、それが今回の記事における所謂「公の場化」の言い換えになるからです。
- 個人アカウントの「準公式化」
それでは、副監督に話題を戻します。
3月15日の私の記事では、「個人アカウントなのでブロックの自由はある」という結論でした。この結論に関して、現時点で私個人としては間違っていないと思っています。
しかしながら、ツイッター上に「ツイッターは公の場である」と考える人間がいる限りそこが「公の場」である(ツイッターの「公の場化」)ように、
ツイッター上に「個人アカウントであっても作品に責任を持つアカウントである」と考える人間がいる限り、彼の公式アカウントは作品の公式アカウントに準ずるアカウント(「(作品に対する)準公式化」)であり続けるでしょう。
そのことが分かっているからこそ、多くの著名人公式アカウント、特に作品作りに関わる人はブロックという行為を行わないのではないでしょうか。
言い換えれば「炎上を避けるために個人の権利を制限しろ」というニュアンスを含んでいる故に、これは危険なニュアンスすら内包していることを免れませんが、事実として作品の名に傷がついている以上、ファンとしては作品を守って欲しいと願わざるを得ません。
- 歩み寄りはあるか
先日、副監督解任の署名が存在することを知りました。
一部では、副監督あるいは副監督を擁護する立場の人間と、反副監督の人間による、言葉の殴り合いに近い状況も見て取れます。同じヤマトファンのはずなのですが。
しかし、一方的な「やめろ」の応酬は、終わりなき対立をもたらすだけ。
かなり無茶ではありますが、相互の歩み寄りも検討してみましょう。
ひとつに、ブロックをやめてミュートに切り替える立場。ネタバレを拡散力のないブログに移転したり、非公開アカウントで行う立場。
もうひとつに、ブロックをユーザーの権利として認めつつ、暴言的リプライ・ネタバレを「(作品に対する)準公式アカウント」の責任において非とすることに集中する立場。
それぞれがこの立場に傾いていくことによって、いわゆる「副監督派」と「反副監督派」の歩み寄り(あるいは棲み分け)が為される可能性もあります。
しかしながら、これはかなり難しいと言わざるを得ません。
双方が双方の中で「正しい」という道理を持っているため、これを双方合意のもと妥協することは、ひとつの戦争を終結させることに等しい。
私の理想ではありますが、現実にならないであろうことは理解しているつもりです。