ymtetcのブログ

偶数日に『宇宙戦艦ヤマト』を考えるブログです。

落ち着いた議論をするために

こんばんは。ymtetcです。

今日は昨日の続きです。

 

ここでまず、確認しておきたいことがあります。

私たちがヤマトファンであるためには、何が必要なのでしょうか。

 

それは、ヤマトを「好き」だということです。

 

他に何も要りません。副監督を好きだろうが嫌いだろうが、ヤマトファンはヤマトファンです。

副監督論争*1というのは、もちろん2202という一つのヤマトを介在している論争ではあります。しかし論点は2202というより、むしろ副監督個人に焦点が当たりつつあるのが現状。

嫌な言い方をすれば「場外乱闘」ギリギリの所に論点があり、それぞれが単に「好き」と「嫌い」に分かれているに過ぎないのです。

だから、2202が「好き」か「嫌い」かといった2202論争に参加している人で、副監督論争に加わらない人も一定数いるのですね。

ちなみにこの副監督論争、

「アンチは副監督批判をやめろ」

「信者は副監督擁護をやめろ」

極端な人同士だとこういった会話が交わされているに過ぎないので、はっきり言って建設的な議論とは言えません。

 

ではどうすればいいか。

一つは、私のように個人ブログに立てこもる(笑)。

 

もう一つが、昨日書いてみたような「好き」と「嫌い」の整理をすることです。

「ヤマトが好き」という当たり前の感情は、ともすれば感情をこえて、論争の「大義」となってしまいます。Nzawa様のご指摘があったように、「ヤマトのため」が自らの正当化のために使われてしまうのです。

大義」を得た人間の闘争心は凄まじいものがあります。結果的に論争は過激化し、互いが互いを不快にさせるようになる。

こういった論争で古から存在するのが、喧嘩腰のメッセージを送りつけておいて、いざブロック等で無視されると「逃げた!」と勝ち誇る人です。

相手を打ち負かすことが議論の目的ではありません。

現実は、単に相手を不快にさせる物腰をした結果、無視されたということ。その人は厳密には「勝った」のではなく、議論に加わる資格がなかった、と言った方が適切でしょう。

まあ、行き詰まって議論をやめてしまう人も実際にいるので、一概には言えませんが。

 

ともかく、批判のための批判なら別としても、落ち着いて誰かと意見を交換する、自分の意見を誰かに聞いてもらう、見てもらう過程で、過激な口調や態度は現実的なメリットを持ちません。

落ち着いた議論をするためには、まず「大義」を捨て、自分の意見の根拠は自分の感情にしかないことを自覚することが必要なのではないでしょうか。

 

自分の感情を自覚したら、次に、その感情の根拠を探ります。

この過程で、「好き」と「嫌い」の理由、すなわち「副監督はファンをブロックするから嫌い」「デザインが全くヤマトの世界観にそぐわないから嫌い」「玉盛さんは工業デザインを意識したメカデザインをするから好き」といった、人それぞれの具体的な根拠が明らかになってくるわけです。

自分の感情は感情として自分の中に閉じ込めておいて、その根拠を通じて相手と意見を交換することで、自分の根拠が間違っているかどうかを確認することもできます。

例えば、「副監督メカはヤマトの世界観に沿ったメカを出しているから好きです!」と言ったら、「それは違うんじゃないですか?」と反論が来る。そうすると、「副監督メカは本当にヤマトの世界観に沿っているのか?」と、考え直すことができますよね。

 

まず、自分の感情を整理すること。そして、感情の根拠を考えること。

こうすることで、多少は落ち着いた意見交換ができるのではないでしょうか。

自分の感情を自覚することで、他人の感情を慮る余裕も持てるようになります。

もちろん、議論をしないという選択肢もあります。しかしそれは、あまり良いことには思えません。

議論をするということは、他者の意見を聞いて自分の意見を見つめ直し、場合によっては修正し、場合によって貫き通す、その繰り返しです。

私は元々意見交換が大の苦手で、今も不得意だということはコメント欄の現状からお判りかと思います。

それでも実際、当ブログに皆様から様々なコメントをいただいたことで、私なりの「俺ヤマト像」を構築することができるようになってきました。

意見交換こそ正義とは思いませんが、意見交換は自分を知るいい機会だと考えています。

 

最後に余談ですが、2199でさえ出渕総監督が個人批判に晒されました。

「出渕の関わるヤマトは観たくない」などという、副監督批判には劣りますが強烈な個人批判もありました。

今後も、ヤマトではこういった「場外乱闘」的な論争は決してなくならないと思います。

*1:今日この記事で使う「論争」や「議論」という堅苦しい言葉は、「意見交換」みたいな比較的柔らかい意味合いで使っています。