こんばんは。ymtetcです。
ヤマト歴が長くなればなるほど、「これだ!」と思えるヤマトに遭遇する機会がなくなってくるもので、どうしても批判することが多くなる人もいるでしょう。
作品に対する批判的姿勢というのは、ヤマトというコンテンツを長い目で見た時にどうしても必要になります。
例えば出渕さんが旧作について批判的な姿勢(古代の性格など)を見せた時「旧作を批判する出渕なんかにリメイクさせるな」と批判する人もいましたが、既存の作品を絶対視しない姿勢というものは必要で、だからこそ出渕さんはあれだけ細かな所まで考慮したリメイクをやりきったのだと思います。その点、庵野さんのリメイク論は正直賛同しかねるんですけどね。
2202は2199を絶対視しないあまり変な方向に振り切れてしまったのが残念でしたが、これもいい教訓としていただきたいもの。
そう、批判というのは教訓を得るために欠かせないものです。よくネット上に「批判をするな」と言う人がいますが、それでは失敗を繰り返すだけです。
あと、2202を批判するものいいですが、それと同時に2199を絶対化してしまっては意味がありませんね。そういう意味で、全てを相対化する視点が必要でしょう。
批判的意見の必要性についてはこの辺りでいいとして、今日はそのやり方について考えてみたいと思います。
自分の目の前に許しがたい何かが登場した時、とてつもない怒りが湧いてくるのを感じるでしょう。現に私は第五章の時、怒りのあまり無言で劇場を飛び出し、夜風に当たりながら呆然としていました。いい歳した大人ですので大変情けない話なのですが。
そうして生まれたのがこの記事で、とても過激な口調を用いていることが分かりますね。
しかし先に結論から言えば、批判的意見を提起する際、過激な口調を用いることに意味はありません。むしろ逆効果なのではないでしょうか。
というのは、過激な口調はその意見の正当性以前に、他者を不快にさせるからです。
そして、自分を不快にさせる意見に賛同しようとは思わない。こうして「そこまで言うくらいなら観なきゃいいのに」という感情が生まれ、それが「批判をするな」という批判に転じ、「アンチのアンチ」が誕生する。
これではまさにファンの分断であって、建設的な議論にはなりません。
まぁ、建設的な議論は必ずしも必要ではないのですが、どこかにそれがあることで、どれほどのメリットがあるか。第2、第3の2199を生み出すには、建設的な議論が欠かせないのです。
最近、副監督がRTするような2202称賛意見と、割と頻繁にみかける2202批判意見のRT・いいね欄を見ることがあるのですが……。
正直、どちらも「いつものメンバー」感があります。
別に悪いことではありませんが、称賛も批判も過激化してきて、分断を引き起こしているように思えるのです(そして、副監督がそれを煽っている)。ヤマトを「好き」という気持ちは変わらないはずなのに……。
もったいないですね。