こんばんは。ymtetcです。
前回の記事では、『2205』の既出情報を整理しました。
そこで今日は、「新たなる旅立ち」という言葉に注目して『2205』を考えていきたいと思います。
- はじめに
- 旧作は誰にとっての「新たなる旅立ち」だったか
- 『2205』が旧作から引き継ぐもの
- 「新たなる旅立ち」のゆくえ:人類の「新たなる旅立ち」?
- 「新たなる旅立ち」のゆくえ:ヤマトシリーズ永遠の課題
- おわりに
はじめに
『2202』で福井晴敏さんは、「かつてヤマトが発信した”愛”の再定義と復権こそが急務」と主張して*1、サブタイトルに『愛の戦士たち』を掲げました。
今作『2205』でも、『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの歴史を踏まえて何らかの意義付けをした上で、『新たなる旅立ち』というサブタイトルを掲げていることでしょう。
旧作は誰にとっての「新たなる旅立ち」だったか
まずは、旧作がどうだったかを振り返ります。
旧作『新たなる旅立ち』は、ひとつに「宇宙戦艦ヤマト」にとっての「新たなる旅立ち」であったと言えます。北野・坂本・山崎・徳川太助ら新たなクルーを迎えた宇宙戦艦ヤマトは、新人クルーの訓練航海に旅立ちます。これがひとつです。
もうひとつは、デスラーにとっての「新たなる旅立ち」です。母星・ガミラスとイスカンダル、愛するスターシャをほぼ同時に失ったデスラーは、新天地を求めて旅立ちます。
また、メタ的には『ヤマト2』という世界線分岐後の一作目という意味で、ヤマトシリーズの「新たなる旅立ち」でもあります。最初のテレビシリーズ『宇宙戦艦ヤマト』の象徴的な存在であるガミラス・イスカンダルの二連星を同じテレビ放送の『新たなる旅立ち』で葬る、という構図は”過去を振り切って未来へ”というメタファーとしても解釈できるでしょうし、徳川機関長の息子・太助の存在からは”過去を受け継ぎ未来へ”という志向も見出せます。
つまり、旧作『新たなる旅立ち』は、劇中の宇宙戦艦「ヤマト」にとっての「新たなる旅立ち」、デスラーにとっての「新たなる旅立ち」、そしてヤマトシリーズにとっての「新たなる旅立ち」であったと言えます。
『2205』が旧作から引き継ぐもの
『2205』は、既出情報から見れば旧作『新たなる旅立ち』を受け継いでいるように見えます。例えば、前回の記事で整理した、
「ネクストジェネレーション」にあたるヤマトクルーの活躍が「かなり描かれる」。
この部分には、旧作の”劇中の宇宙戦艦「ヤマト」にとっての「新たなる旅立ち」”が継承されています。さらに、『2202』での
あなたには、ガミラスの未来を委ねたい。戦いの虚しさを知ったその心で、民を率いてください……。
(「構成メモ⑤」『シナリオ編』273頁)
というキーマンとの別離シーンは、デスラーにとっての新たな物語の始まりを示唆するものです。こちらも旧作から継承されるであろうことは、容易に想像できます。
しかし、「『さらば宇宙戦艦ヤマト』のリメイク」として『2202』を作り出した福井晴敏が、たったこれだけのために『2205 新たなる旅立ち』を引き受けるでしょうか。
それがあり得ないということは、今更言うまでもありません。彼はこう言っています。「キャラクターという形骸だけを借りての物作りには、キャラクター物としての限界がつきまといます」と*2。
福井さんは、『2202』でも挑戦した「ヤマトの真の復権」という難題に、本作『2205』を通じて再び挑むに違いありません。
「新たなる旅立ち」のゆくえ:人類の「新たなる旅立ち」?
実は、『2202』のラストシーンには「新たなる旅立ち」という言葉が添えられています。
西暦2203年、ヤマト帰還せり。人類の新たなる旅立ちが、ここから始まる。
(完)
(「構成メモ⑥」『シナリオ編』286頁)
さらに、最終話のシナリオにも、
軌道を囲む瓦礫の輪すら、輝いて見える。
青い地球へ帰還してゆくヤマト。
人類の新たなる旅立ちを祝して、昇り始めた太陽が地球の陰から差し込み──。
【最終話 了】
【宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち 完】
(『シナリオ編』217頁)
とあります。ここでは、「新たなる旅立ち」の主体は「人類」になっています。
加えて福井さんは、『2202』最終話で人類が下した選択に対して、
古代たち地球人類には、その代償がもたらす苛酷な現実が待っている。引き金を引かずに済む未来は、見つからずじまいだったのですから。
(劇場用パンフレット、3頁)
と述べています。
ここからわかるのは、『2205』は”人類の「新たなる旅立ち」”を描く可能性があるということです。引き金を引かずに済む未来を求めて、人類は途方もない試行錯誤の旅に出る──というわけです。これは、先日紹介した福井さんの「現実に応用可能なものを今後も提供していきたい」という抱負とも符合します。
引き金を引かずに済む未来を求め続ける人類の物語──というテーマが、『2205』の主要なテーマの一つとなる可能性も考慮しておかなくてはなりません。
「新たなる旅立ち」のゆくえ:ヤマトシリーズ永遠の課題
福井さんが旧作同様、メタ的な「新たなる旅立ち」に挑戦してくる可能性も十分にあると考えます。それはヤマトシリーズ永遠の課題、世代交代です。
ヤマトシリーズは『新たなる旅立ち』そして『ヤマトⅢ』『復活篇』において、キャラクターの世代交代に挑戦しました。また『2520』では、「宇宙戦艦ヤマト」ごと世代交代させるという荒業にも挑戦しました。
リメイクシリーズにおいては、『2199』及び『星巡る方舟』が古代進のみを主人公としない”群像劇”に挑戦し、ヤマトシリーズの新しいあり方を模索しました。
それに対して『2202』が、強烈なまでに古代進を主人公に据えて物語を紡いだのは、記憶に新しいことです。
では『2205』もまた古代進を主人公とするだろうか、と考えてみると、私はそうではないと考えます。せっかく『2202』で「鬱抜け」をさせた古代進に、また新たな葛藤を与えるメリットはありません。もちろん、不可能ではありませんが。
そこで『2205』は、古代進はある意味「大人」としての立場とドラマに専念させ、「若者」としてのドラマは「ネクストジェネレーション」のキャラクターに委ね、新しい『宇宙戦艦ヤマト』の主人公を模索していくものと予想します。
ただし、『2205』が特定の主人公を置かない可能性も否定できません。というのも、旧作があれだけ模索して失敗した歴史を踏まえると、容易に新しい主人公が見つかるとは思えないからです。
『2205』があくまで今後のシリーズ展開のための「新たなる旅立ち」ならば、本作は新しいヤマトクルーたちを主人公とした集団劇として観客の反応を見てみよう、という試金石になるのかもしれません。
おわりに
『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』で発信された”愛”と同様に、『宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち』で用いられた”新たなる旅立ち”という言葉もまた、その後の『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの言葉選びに大きな影響を与えたフレーズでした。
最初のテレビシリーズや『さらば』と比べれば、今日まで顧みられる機会の少なかったのが旧作の『新たなる旅立ち』です。ですが、『ヤマト復活篇』へと至る『ヤマト2』後の第一作目として見れば、重要な意義を持つ作品でもあります。『新たなる旅立ち』は、今日的な視点からすれば、ヤマトシリーズの衰退の起点でもあったのです。
『ヤマト2』のラストから『新たなる旅立ち』にかけてが「ヤマトの衰退」の起点だった、という認識は、福井さんも恐らくは持ち合わせているでしょう。
だからこそ、「ヤマトの復権」をテーマに『2202』へと加わった福井さんが、どう料理していくのか。
『2205』がとる方向性は、今後のリメイク・ヤマトシリーズ、ひいてはヤマトシリーズの帰趨にとって重要な意味を持つかもしれません。