ymtetcのブログ

偶数日に『宇宙戦艦ヤマト』を考えるブログです。

『ヤマト2205』の前座として:映画『ヤマトという時代』

この記事を書く予定だった日の夕方、ホンダのF1撤退がニュースになりました。

実は、ymtetcの「etc」とは主にモータースポーツでした。ブログにわざわざ書くほどの知識はなかったので自然と書かなくなりましたが(笑)。今回はビッグニュースでしたので、ヤマトファンの皆さま向けに(?)一言触れておきたいと思います。

さて、ホンダが撤退するのはある程度仕方ないことではあるのですが、やはり、日本のファンからはかなり批判されているようです(Twitter等で検索をかけていただくと分かります)。今回の撤退ニュースをめぐって、ファンにとって特にホンダの印象を悪くしているのは、ホンダがこの数十年の間、復帰と撤退を繰り返していることだと思います。

なぜ、復帰と撤退を繰り返すことがマズいのか。それは一つに、F1から撤退した時点で、ホンダは「過去」の存在になってしまうからなんです。すなわち、撤退した時点でF1の「世界」の一員ではなくなってしまう。それを繰り返すことは、参戦中に積み上げてきたF1「世界」での市民権とノウハウを、撤退のたびにリセットしていることに等しいわけです。なんと勿体ない。

実はこれ、これからの『宇宙戦艦ヤマト』にも同じことが言えると思います。

リメイクシリーズはいつか、終わりがきます。それこそ『2199』⇒『2202』の衰退具合からして、『2205』が最後かもしれません。それ自体は仕方のないことかもしれません。

ですが、そこで『宇宙戦艦ヤマト』自体をこの「世界」から撤退させてしまってはいけません。その時点で、せっかく『復活篇』が口火を切り、『2199』が開花させ、『2202』『2205』と生き延びてきた「今」の『宇宙戦艦ヤマト』が、再び「過去」の存在になってしまうからです。そうなれば、再び『宇宙戦艦ヤマト』は「世界」における市民権(この場合、存在感とでもいいますか)を失い、いつかまた「復帰」しようとしても、それはゼロからのスタートになってしまいます。

これからの『宇宙戦艦ヤマト』は、リメイクシリーズの出口を模索しつつ、その先に新たな『宇宙戦艦ヤマト』を継続させていく具体的なイメージを考えておく必要がありますね。裏を返せば、ホンダ撤退のニュースは「継続」の難しさを改めて教えてくれたのかもしれません。

では、これとは全く関係のない(笑)、今日の記事へと進みましょう。

yamato2202.net

こんにちは。ymtetcです。

映画『ヤマトという時代』は『2202 愛の戦士たち』の総集編でありながら、「愛」をテーマにはしていません。

そんな『ヤマトという時代』に対し、福井さんは「最新作『2205 新たなる旅立ち』をご覧いただく前に」との言葉を寄せています。『ヤマトという時代』は、『2205 新たなる旅立ち』の前座映画である……ここから、色々な論点が生まれてきそうです。

〇『2205』は「愛」をテーマにしない?

『2205』の前座である『ヤマトという時代』が、「愛」をテーマにしない。この事実から想起されるのは、”『2205』もまた「愛」をテーマにしていない”ことでしょう。

旧作『ヤマト』シリーズでは、後期作品に至っても「愛」が随所にテーマとして散りばめられていました。例えば、(原作ではないにせよ)『2205』と関係のある『ヤマトよ永遠に』は正面きって「愛」を一つのテーマとしていましたし、テレビシリーズのいちエピソードとしては(これまた『2205』と関係のある)『Ⅲ』が、ルダ王女と揚羽を通して「愛」を描きました。

そのことを踏まえると、「”愛”こそが『ヤマト』のアイデンティティなのだ!」と開き直って、シリーズを通して様々な「愛」の形、「愛」の物語を描き、現代風にアップデートさせていくことも決して選択肢から排除されるものではありません。

ですが、少なくとも『ヤマトという時代』はその道を選びませんでした。旧作『ヤマト』の後期作を「”愛”を痩せ衰えさせ」た作品と振り返る福井さんの問題意識からして(『シナリオ編』219頁)、初めから福井さんの選択肢にはなかったかもしれませんね。

前座である映画(しかも『愛の戦士たち』の総集編)が「愛」をテーマにすることを明確に回避している。そのことから想像するに、『2205』が「愛」とは別のテーマを掲げて発進することはほぼ間違いないと思います。

〇やはり「人類の新たなる旅立ち」?

では、『2205』はどんなテーマを打ち立てるのか。

前回の記事で紹介したように、『2202』構成メモの最後の一文には「新たなる旅立ち」の文言がありました。今一度おさらいしておきましょう。

西暦2203年、ヤマト帰還せり。人類の新たなる旅立ちが、ここから始まる。

(『シナリオ編』286頁。)

そしてこれは、『2202』最終話が意図的にドラマの主軸を「人類」の側に投げた、そのことを端的に示した表現でした。

夢幻の鼓膜を破り、二人の前に現れる宇宙戦艦ヤマト。人類の選択は為された――

(『シナリオ編』267頁。)

そして、『ヤマトという時代』は「人類」ひいては「世界」に注目して、『2199』と『2202』を一つの軸から再構成します。『追憶の航海』がイスカンダルからの発進を事実上のラストシーンとしたように『ヤマトという時代』もまた後継作との繋がりを意識するのであれば、『2205』が「人類の新たなる旅立ち」を描くことに挑戦する可能性も、十分にあると考えます。

福井さんは、『2202』最終章パンフレットでこう語っています。

古代たち地球人類には、その代償がもたらす苛酷な現実が待っている。引き金を引かずに済む未来は、見つからずじまいだったのですから。

「引き金を引かずに済む未来」を見つけること。これは「『2202』の宿題」と言うより、「人類の永遠の宿題」と言った方がいいかもしれません。この大テーマを新たな『ヤマト』シリーズの軸として設定し、ひとまず『2205』では「人類の新たなる旅立ち」を描く。これは「現実に応用可能なもの」を志向する福井さんの作風とも合致するため、一つの選択肢になり得るのではないかと考えています*1

〇『2205』のテーマは何であれ

とはいえ、ここまで難しく考える必要もありません。何しろこれは『2205』の話であり、『2205』の情報がほとんどない今、正解を見つけるのは不可能だからです。

確実に言えることは、『2205』が「愛」をテーマにしないこと。そして、『2199』のような「宇宙戦艦ヤマトの旅ドラマ」でもなく、恐らくは『2202』のような「古代進の葛藤と克服ドラマ」でもないということです。

「世界」に着目する『ヤマトという時代』の視点は、『2199』の視点とも『2202』の視点とも異なります。福井さんがこのような形で映画を構成する二義的な狙いは、『2199』と『2202』をどちらの視点とも異なった一つの視点で総括することで、『2205』で新たなテーマを提示する土壌を整えることにあるのではないでしょうか。つまり、『ヤマトという時代』は『2205』のための地ならしなのだと考えます。

現実にどれだけ本気なのかは別にして、福井さん自身は「シリーズ未見の方」も観客として想定しているようなコメントを残しています。『ヤマトという時代』は、(決して多くはないでしょうが)新規層に対して、”『ヤマトという時代』⇒『2205』”という「最短ルート」を提示する役割も担うことになります。そのことを踏まえて逆から考えれば、『2199』の「宇宙戦艦ヤマトの旅ドラマ」や『2202』の「古代進の葛藤と克服ドラマ」は、客観的な「歴史」の一ページではあっても『2205』を楽しむ上では特に必要のない予備知識であるということです。『2205』を楽しむために必要な予備知識は、コンセプト的には『ヤマトという時代』で網羅されるわけですからね。『ヤマトという時代』のあり方は、『2205』のあり方にも深く関わる問題だと言えます。 

『2199』や『2202』が持っていた「視点」(ヤマトの旅、古代の葛藤)を「『2205』を楽しむ上では特に必要のない」ものだと書きながら、自分で少し末恐ろしい気持ちになりました。特に『2199』が「福井晴敏の解釈を知っておけば何も問題ありません」と公式に位置づけられるというのは、少し怖さを覚えますね。やはり、『2199』を『2202』チームが「乗っ取る」ような形になってしまうのかな? と。そう評されないためにも、福井さんをはじめとした『ヤマトという時代』『2205』チームは明確に、『2199』を「受け継ぐ」姿勢を示しておきたいところです。

 

<コメントに返信いたしました>

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*1:同じようなことをこちらの記事でも書いています。「【ヤマト2205】「新たなる旅立ち」のゆくえ - ymtetcのブログ