ymtetcのブログ

偶数日に『宇宙戦艦ヤマト』を考えるブログです。

『Λ』第6話に「旧ヤマトらしさ」が存在した可能性

こんにちは。ymtetcです。

明日は『Λ』第7話の公開日ですね。

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これまでのルーティンに当てはめるのであれば、今回もセイレーネスの謎に迫りつつ、トップネスのいずれかのキャラクターに焦点を当てる回になるでしょう。

さて、ブログの方では最近、主題歌を軸に「旧ヤマトらしさ」を考える試みを行っています。これまでの「旧ヤマト」「新ヤマト」をめぐる議論で用いられてきた「悲壮感」に代表される、『ヤマト』の「〇〇感」「らしさ」「ぽさ」に迫る試みでもあり、もう少し普遍性を高めていくことができれば、今後に活かせる応用可能な材料になるのではないか、と思っています。

そこで今日は、『Λ』第6話と「旧ヤマトらしさ」のコラボレーションにチャレンジしてみます。これまで書いてきましたように、『Λ』は「ヤマトらしさ」を自覚的に”考慮しない”作品です。だからこそ意味がある……と書いてきた私からすれば、今回の記事は我ながら「ナンセンス」かもしれませんね。

〇「使命感」と「孤独感」

『Λ』第6話は、マリナを中心に描いた回でした。マリナは自らの人生を武器にして、艦隊の危機を救いました。マリナがセイレーネスを倒す過程には「マリナにしかない物語」が位置づけられており*1、”襲来するセイレーネスを倒す”という『Λ』の基本構造の中に、シンプルかつ情熱的な「ドラマ」を組み込むことができていたと思います。

同じように、旧『宇宙戦艦ヤマト』もまた、”イスカンダルまで行って帰ってくる”とのシンプルな基本構造の中に「ドラマ」を盛り込んでいた作品です。『宇宙戦艦ヤマト』の場合は、その「ドラマ」が我々に与える感覚こそ、我々が認識する「悲壮感」であったと言えます。

さて、『Λ』第6話はどんな「〇〇感」を描き、我々に届けていたのでしょうか。

第5話に始まるマリナの物語では、木星で戦うマリナが遠く離れた場所に残してきた「大切なもの」が描かれていました。それは故郷である「ヌナブト」(イヌイット自治州)と、そこに住む家族でした。さらに言えば、マリナは母親を失った過去を持つ人間であり、その意味でもマリナは、遠いところに「大切なもの」を残してきたと言えます。

そしてマリナは、それらを守るために戦いました。

ママが愛したもの…

ママが大切に思っていたもの…

木星でママの代わりに守るつもりだったの…

でも もう…

ごめんなさいママ…

とのモノローグが第6話にありましたね。

マリナが木星でセイレーネスと戦って地球を守ることは、故郷を守ることであり、愛する人を守ることであり、愛する人が大切にしていたものを守ることでもあります。

大切なもの(故郷、愛する人)との距離が離れていること。遠い場所に残してきた大切なもの(故郷、愛する人)を守るために戦うこと

主題歌から読み解く旧「ヤマトらしさ」 - ymtetcのブログ

「さらば地球よ」「愛する人よ」「地球を救う使命を帯びて戦う」「誰かがこれをやらねばならぬ」。まさにこの構図です。

「宇宙戦艦フレーザー」の物語は、この意味で、「旧ヤマトらしさ」の一端である「使命感」と(故郷から離れているという意味での)「孤独感」が描かれていたと言えるのではないでしょうか*2

『Λ』第6話の物語に「ヤマトらしさ」や安心感を覚えた方がいらっしゃるとすれば、それは(ヤマトファンにはお馴染みの)「次元潜航」というガジェット的な仕掛けだけではなく、こういった「ドラマ」の構造に要因があるのかもしれません。

〇普遍性と両作の違い

重要なことですが、これはあくまで偶然でしかありません。「面白い物語」には、往々にして構成上の共通点が見出せるものです。

しかも今回の場合は、構造の共通性が見出せるだけに、かえって『ヤマト』と『Λ』の違いを浮き彫りにしていたと考えます。

『ヤマト』は故郷を離れて”移動”しますが、『Λ』は故郷を離れて敵を”迎撃”します。結果、『ヤマト』の物語は「宇宙もの」だけではなく「海洋もの」の要素も色濃く含んでいます。これは、全ての『宇宙戦艦ヤマト』を支配してきた「宇宙は海」の宇宙観にも繋がるものです。

一方、現時点の『Λ』は「宇宙もの」の要素が色濃く出ています。ただ、ニーナの乗艦がクジラをイメージしていることもあり、今後は分かりません。

『Λ』が「宇宙は海」と決別するのか、あるいは継承するのかは、「新ヤマト」や『ヤマトNEXT』シリーズの在り方を考える上で興味深い論点の一つです。今後も注目していきたいと思います。

〇逆転の発想を逆から見れば

なお、比較対象を変えることで違った見方をすることもできます。

確かに『Λ』は、『ヤマト』と比較すれば「海洋もの」の要素が弱いかもしれません。しかし反面、同じ”迎撃”型の基本構造を持っていた吾嬬さんの過去作『鉄腕アダム』と比べるとどうでしょう。

『アダム』の場合は、基本的に地球で敵を”迎撃”していました。反面、『Λ』は地球から”移動”し、木星で敵を”迎撃”しています。結果、今回のような「さらば地球よ」「愛する人よ」「地球を救う使命を帯びて戦う」「誰かがこれをやらねばならぬ」に近いドラマが描かれることになったのです。その意味では、『Λ』は少し『ヤマト』の作風に近づいていると見なすこともできます。

ただし、改めて強調しておきたいのは、それが偶然だということです。

とはいえ、『Λ』は全くの白紙のキャンバスではありません。そこには『宇宙戦艦ヤマトNEXT』のお題があります。このお題に対して、吾嬬さんのチームがどのような作品を作り上げたのか、も、注目したい点です。

『Λ』は、これまでの『宇宙戦艦ヤマト』とは全く関係のないところに位置づけられる作品。だからこそ、私たちのモヤモヤである「ヤマトらしさ」を浮き彫りにする作品になるのではないかと考えています。すなわち、『Λ』自身が『宇宙戦艦ヤマト』に対する逆転の発想(敢えて「ヤマトらしさ」を求めない)に立っている作品なのです。

しかしながら、この逆転の発想を敢えて逆側から見ることもできます。本来「ヤマトらしさ」が存在しないはずの『Λ』を、敢えて「ヤマトらしさ」の側から捉え直すのです。もし、今後の『Λ』に(作者の意図しない形で)「ヤマトらしさ」が生じたとすれば、どうでしょう。その時、そこにある「ヤマトらしさ」は、

の7文字が持つ見えない力によって、導かれている可能性があるわけです。

それは、『宇宙戦艦ヤマト』のタイトルそのものが持つ力の証明でもあり、新旧を問わず『宇宙戦艦ヤマト』を考える上では、重要なヒントをくれるものになるはずです。

『スターブレイザーズΛ』から『宇宙戦艦ヤマト』を考える。

宇宙戦艦ヤマト』から『スターブレイザーズΛ』を考える。

このどちらのアプローチも、『宇宙戦艦ヤマト』そのものを捉え直す上での有効な手段となり得ます。私たちは今、とても興味深い時代に生きているのかもしれません。

*1:どんな人生も武器になる:第6話『スターブレイザーズΛ』 - ymtetcのブログ

*2:「孤独感」は、必ずしも「旧ヤマト」と同じものではありません。むしろ、ラストシーンで父親からの連絡が入ることで「旧ヤマト」的な「孤独感」は弱まったと見ることもできるでしょう。