ymtetcのブログ

偶数日に『宇宙戦艦ヤマト』を考えるブログです。

【休】『ヤマトという時代』に抱く『2205』への不安

こんにちは。ymtetcです。

『2205』冒頭付の特別上映は、上映回数の激減により観に行くことができそうもありません。厳しい状況が続きますね。

さて、連続になりますが今日も即席記事です。

以前、『ヤマトという時代』の感想記事で「鑑賞直後にとったメモでは、ほとんどが映画の課題ばかり」という旨を述べました。今日はその一つ「情報量が多過ぎる」について、書いてみたいと思います。

2205年のドキュメンタリーを面白くすることは、福井さんにはできる。でも今回それは、2199と02の総集編を面白くするための手段に位置づけられている。だから、いかにドキュメンタリー風にしても、あくまで総集編に過ぎない。結果、全ての要素を「時代」「選択」の枠に当てはめることができず、映画の本筋から外れた情報がノイズになっていた。でも、それは両作品を理解して2205に繋ぐために必要な情報なのだ! そういうところも含めて、良くも悪くも、どこか歴史の講義のような印象を受ける映画だった

これは、私が鑑賞直後にとったメモの一部です。まとめると、

  • 本来、「2205年のNHKスペシャル」を面白くすることは福井さんには可能
  • けれど、『時代』はあくまで総集編であり、情報を網羅しなければならない
  • 結果、一本の映画においては不要な情報がたくさん盛り込まれた
  • 良くも悪くも、歴史の講義のようだった

この4つのポイントが、私の気になった点でした。

「不要な情報」の例としては、例えば『2202』第9話に相当するシーンの解説でしょうか。あそこは古代と雪のドラマがメインなので、シュトラバーゼの構造や、彼らが救い出された仕組みはどうでもいい。変に脱線して話を分かりにくくするところが、歴史の講義のようだなと思ったのです。

映画『ヤマトという時代』は、『2202』という作品を「分かりやすく」するために、情報を足し算する手法をとりました。そして足りなくなった尺は、『2202』に存在した幾つかのドラマを”ドラマごと”カットすることで帳尻を合わせようとしました。

結果、ドラマのボリュームは『2202』よりも少なく、しかし一つ一つのドラマの情報量は『2202』よりも多い、という歪な構成になってしまったと私は考えます。

福井さんは『時代』について、「情報量が多いので繰り返し見て」といった話をしていたと記憶しています。

しかし、私は逆だと思うのです。情報量が多いものを繰り返し見ることは、正直とてもしんどい。繰り返し見てもらいたいのであれば、むしろ情報量を減らすべきではないか。そう私は思います。

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福井さんは『2202』の時、見事なダイジェスト映像用の脚本を書いていました。理想と現実、人間性。『2202』が問おうとしているテーマが複数のドラマに重なっていることを、明確に表現した映像です。

もちろん、初見の人がこれを観て理解できるとは思えません。ゆえに総集編の際には、もう少し情報量を増やしてあげる必要があります。

ですが、『時代』が行ったのは、『2202』に含まれていた複数のドラマをばっさりとカットすることでした。そこに、「リアリティを高めるための」情報量をプラスしていったのですから、一つのドラマを描く映画としては、少々散漫になってしまったと思います。

 

そこで気になるのが、『2205』です。現時点の情報では、『2205』の物語はどこか複雑なもののように見えます。またしても情報過多になってしまうのではないか、そんな懸念がどうしても浮かんできてしまいますね。