ymtetcのブログ

偶数日に『宇宙戦艦ヤマト』を考えるブログです。

【アクエリアス・アルゴリズム】なぜ声と音楽が必要なのか

こんにちは。ymtetcです。

あくまで私の個人的な体験ですが、『アクエリアスアルゴリズム』を読んでいると、ときどき視点が混線することがありました。ですが、その”混線”は必ず、声と音楽を脳内で流すことによって解消できるのです。

ではなぜ、本作には声と音楽が必要なのでしょうか。

今日はこのことについて考えていきます。

〇三人称神視点

アクエリアスアルゴリズム』に声と音楽が必要な理由。それは本作が、「三人称神視点」を導入しているからだと考えます。

小説の文章表現には大きく分けて二種類あります。「俺は」「私は」などで構成される「一人称視点」と、「古代は」「真田は」などで構成される「三人称視点」です。

アクエリアスアルゴリズム』は後者ですね。

さらに言えば、『アクエリアスアルゴリズム』は「神視点」に近いものを導入しているのではないかと思われます。「神視点」の定義には議論があるようですが*1、ここでは、全てのキャラクターの行動や心情を、相互に知る由もないところまで描く視点……だとしておきましょう。

〇「神視点」的場面

「ああ、第二装甲板の奥だ。この整備区画の向こうにコスモゼロのカタパルトがあった」

 激闘の最中、血をたぎらせながら幾度も駆け抜けた狭い通路を、古代はじっと見つめた。

(略)

 そのときパピライザーのセンサーが微弱な信号を感知した。

(高島雄哉著、アステロイド6協力『宇宙戦艦ヤマト 黎明篇 アクエリアスアルゴリズムKADOKAWA、2021年、174頁。)

この場面では、同じ節の中に、古代視点とパピライザー視点が混在しています。一般的に、三人称視点の作品では節ごとに視点を変えることが多いようですが、このような場面がときどき訪れるのが、『アクエリアスアルゴリズム』の特徴です。

この書き方は、どちらかと言えばアニメのシナリオに近いと言えます。

だから読者はこうした場面を迎えたときに、作中世界から少し距離を置いて、文章を映像化する作業が必要になります。先の場面では、古代視点のままではパピライザーの場面が飲みこめないし、パピライザー視点では古代の心情が飲みこめない。だから”音”を脳内でつけて、映像化する必要があるのです。

〇「私の心がこのようにあることは」

一方、『ヤマトという時代』BDの特典小説であった「私の心がこのようにあることは」に、声と音楽は必要ありません。

「いいんですか」と尋ねた。

 声音に緊張が緊張が滲んだ。真田が、大切なものを敢えて踏みにじろうとしているのだと、早紀にはわかっていた。

皆川ゆか「私の心がこのようにあることは」株式会社バンダイナムコアーツ、2021年、80頁。)

こちらの場合、一見すると「早紀」という三人称の表現を使っているものの、視点は基本的に藤堂早紀に限定されているからです。すなわち事実上、「俺は」「私は」の一人称視点だとも言えます。

こうなると、読者は早紀の視点に立って作中世界に入りこめばいいので、映像化の作業も声と音楽も必要ないわけですね。

 

一人称と三人称、そして神視点、どれにもメリットとデメリットがあるようです。

個人的に、小説としては読みやすい「私の心がこのようにあることは」の方が好みな文体ではあるのですが、『アクエリアスアルゴリズム』は厚みのある三人称の描写があったからこそ、映像化されている『完結編』や『復活篇』にも劣らない表現ができていたと考えます。

小説の世界には詳しくありませんが、こちらも奥深そうですね。