【ヤマト2205】記憶と別離(わかれ)
こんにちは。ymtetcです。
『ヤマト2205』のテーマは言うまでもなく「新たなる旅立ち」でしたが、それは『2202』の「愛の戦士たち」と同じく複合的でした。
その中で、私は「新たなる旅立ち」の柱の一つに「記憶と別離(わかれ)」の組み合わせがあると考えています。なぜそう言えるのか? 今回はこれについて書いていきます。
〇デスラーとスターシャの別れ
『2205』の象徴的なシーンに、ドラマのクライマックスを飾った「デスラーとスターシャの別離」がありました*1。ここでデスラーは、最後にスターシャと心を交わした上で、「別離」を味わうことになります。そしてその後、デスラーは古代にこう告げます。
「(スターシャに一目会えたことで)この先、生きていくのに十分なものを手に入れることができた」。
ここでデスラーが言った「この先、生きていくのに十分なもの」とは何か。それは最後にスターシャに会い、心を交わした「記憶」だと言えます。
仮にこの「記憶」がなかったならば、デスラーは「明日への希望」を抱くことはかなわず、「新たなる旅立ち」をすることもできなかったでしょう。この「別離」は、スターシャと最後に会って心を交わした「記憶」があって初めて「明日への希望」に転じるものなのです。
ゆえに『2205』において、「記憶と別離」は切り離せないものだったのだと考えます。
〇イスカンダルの秘密
『2205』で新たに設定されたイスカンダルの秘密もまた、「記憶と別離」の柱で読み解くことができると考えます。
イスカンダルの”救済”とは、現世から肉体を消失させるという”儀式”によって人間や文明を「記憶」と化し、永遠の「記憶」の中で生きながらえさせること。これがイスカンダルの抱えてきた秘密でした。
古代進がサンクテルで兄や両親と再会したように、デスラーがエーリク大公と言葉を交わしたように、イスカンダルの持つ技術を使えば、「記憶」の中で、誰との間にも「別離」を味わうことなく、永遠の平穏を味わうことができます。ここで描かれているのは、「記憶を”真実”だと認識し続けている限り、人間は誰との間にも別離を体験せずに済む」ということです。”人がもし、「記憶」の中で生き続けることができたなら、もう誰とも「別離」することはない。” これが古代イスカンダルの思想であり、『2205』が提示する一つの命題でした。
しかしスターシャは、それは「記憶」という過去の中に自己を留め続けているだけで、死んでいるのと同じであると語ります。『2205』はスターシャの言葉を借りて、この命題を真っ向から否定したわけです。
なぜ『2205』は、古代イスカンダルの思想を否定しなければならないのでしょうか。これは明白でしょう。「記憶」の中に留まり続ける人生には、もはや「明日への希望」も「新たなる旅立ち」もありません。古代イスカンダルの思想は、明確に『宇宙戦艦ヤマト』の、そして『ヤマト2205』の肯定する思想とは相いれないのです。
〇おわりに:挿入歌「別離」
こうして、イスカンダルの自爆を決意したスターシャの言葉と重なるように流れるのが挿入歌「別離」でした。
この歌の解釈については、また記事を改めたいと思います。しかし『2205』は、この曲を通じて、作品のテーマをはっきりと私たちに示そうとしていました。
『2202』も描いたように、人間が人間らしく生きるためには刻一刻と「明日」へと向かう人生を歩まなければなりませんが、そのためには「明日への希望」が不可欠です。
しかし、人間が「明日」へと向かう人生を歩み続ける過程で、「別離」は避けては通れません。「別離」は悲しく、苦しく、受け入れがたいもの。それでも「別離」は、人間が人間らしく生きていることの証でもあります。だから、目を背けて済むようなものでもない……。
では何が、「別離」の苦しみから私たちを救ってくれるのでしょうか。それこそが「記憶」です。今を生きている私たちとは一線を画した場所に、大切に保管される「記憶」。刻一刻と「明日」へ向かっていく私たちが、胸の中にしまいこんで時折振り返る、大切な「記憶」。それこそが、私たちを「別離」の苦しみから救ってくれるのです。
いまも心にのこる いとしいおもかげ
光る泪のなかの 優しい微笑み
(略)
永遠の愛を胸に秘めて
生きつづけます わたし
「記憶」の中に留まって「別離」から逃れ続けるなど、もはや人生ではない。でも、「記憶」は時に、「別離」の苦しみから私たちの心を救ってくれる。
挿入歌「別離」やあのラストシーンを通じて『2205』が描きたかったのは、まさにそんな、『2205』らしい「記憶と別離」の関係だったのではないでしょうか。