【ヤマト2205】古代進はスターシャを救う気だったのか
こんにちは。ymtetcです。
以前の記事「【ヤマト2205】古代進と「家族」と、あの涙 」に、papirio様から以下のようなコメントをいただきました。
古代ですが本当にスターシャを救おうとしていたのでしょうか。
イスカンダルが消滅したらスターシャも存在できませんが、イスカンダルは太陽に向かって進んでおり、いずれ消滅してしまう運命にありました。
どのみち助からない。
知っていたからこそ、せめて最後にとこの作戦を行ったのかなと思っています
「イスカンダルは太陽に向かって進んでおり、いずれ消滅してしまう運命」。この点には全く気がついていなかったので、ハッとしました。ありがとうございます。
そこで今日は、古代はスターシャを救う気だったか、について考えてみたいと思います。ここは受け手としての悩みどころですね。古代はスターシャを救う気があった、とすればイマイチ収まりが悪く、救う気がなかったとすれば、物語としては危うい。微妙なところです。
〇デスラーはスターシャの命を救えるとは思っていない
デスラーの反転180度から始まった一連のキャラクターの動きは、確かにスターシャの命を救うことについては諦めているように見えます。
特にデスラーは、ゴルバにその身を投げ出した際、ゴルバを沈めれば「スターシャに星ごと自爆させるような真似をさせずに済む」と言っています。スターシャの命を救う、とは言っていないのです。すなわちこのシーンの解釈は、「愛するスターシャに星ごと自爆させるようなことを私はしたくない」と思ったので行動を起こした、と見る方がすっきりします。
また、作戦後の土門と古代の会話「知っていたのなら」→「これで救われた心もある」の流れは、もともと古代がスターシャの命を救うこと以上に、デスラーの心を救うために行った側面を強調するように演出していると思います。
そうすると、「せめて最後に」との解釈が正しいように見えます。
〇心を救うために命をかける危うさ
ですが、そう解釈すると、デスラーが自分を慰めるために行った行動、古代が自分の心に従ってとった行動が、多くの乗組員の命を危険にさらした側面も持ちます。ここが私の考える、この解釈の危うさです。
つまり、「これで失われた命もある」かもしれないのです。この戦いで戦死する、とりわけ地球側に損害が出た場合、それこそ「愛する人と最後に会える」ことなく戦死するわけですから、新たな「救われない心」を作り出してしまう恐れもあります。
自分の心を救うために、他の誰かの命や心を犠牲にしてもよいのか、という点は、少し議論の余地があるような気がしますね*1。
〇古代「地球に来てください」の真意
一緒に地球に来てください。私は、もう二度と家族を失いたくない!
もう一つ気がかりなのは、古代がスターシャに対して「地球に来てください」と述べたことでしょう。これは古代が明確に、スターシャを救い出したいと述べたことになります。このセリフによって、古代の意図が曖昧になっている側面もありますね。
さて、これは第4話のデスラーと同じセリフだと解釈したいところです。イスカンダルを明け渡してでも、生きていて欲しい。それが古代の本音なのではないでしょうか。
イスカンダルではどうだか知らない。でも地球では、自分のきょうだいを愛してくれた人は家族になるんです。兄を愛してくれたのなら、あなたは私の姉ということになる。他のことはどうだっていい。一緒に地球に来てください。私は、もう二度と家族を失いたくない!……姉さん!
だからこそ、この言葉を伝えられなかった第7話で、古代は涙したのだと考えます。
〇集団劇とのバランス
主要キャラクターが軒並み艦のトップであった今作は、集団劇とのバランスがより一層難しかったのではないでしょうか。
艦長の決断は多くの乗組員の人生を左右します。輝かしい戦果、ヒーローの決断の裏で、「最後に愛する人に会えなかった」人がいるかもしれないのです。
この点については、それこそ方舟で「相互理解」の蚊帳の外に置かれたガトランティスのように、戦いの中で人間ドラマを描く作品は、逃れることのできないジレンマでしょう。さらに、『2202』の国民投票と『2205』の土門のように、「自分の心に正直である」ことを善として人々が行動していく福井ヤマトでは、常に起こり得ることでもあります。
このことは、今後の作品でも問われるのではないでしょうか。