ymtetcのブログ

偶数日に『宇宙戦艦ヤマト』を考えるブログです。

【ヤマト2205】デスラーと古代それぞれの”情報量”

こんにちは。ymtetcです。

『2205』、とくに後章は、たくさんの情報を詰め込んだ作品であったと思います。その方針にはメリットもデメリットもありますが、少なくとも『2205』は「詰め込む」ことだけに執着するのではなく、そこからの”引き算”も心得た作品だったのではないでしょうか。今日はこれについて考えていきます。

〇「詰め込み」のリスク

第一印象」記事でも書いたように、私自身は当初、『2205』を楽しめなかった立場でした。今でこそ、古代進に関してファンの皆様からたくさんの考察をいただいて楽しめるようになりましたが、少なくとも劇場では楽しめなかったわけです。

その原因は観客側の私によるところが多かったわけですが、敢えて作品側の原因を挙げるならば、まさに「詰め込み」だったと言えます。『2205』はたくさんの情報を詰め込んでいるので、途中、一つでもボタンを掛け違えると楽しめなくなるリスクがあるのです。

(私の場合は「後章第1話」にあたる第5話でしたが)どこかのタイミングで受け手側に「?」が浮かぶと、その瞬間、受け手の没入感には一瞬の揺らぎが生じます。「?」の浮かんだ自分自身に思考が移動するわけですから、一時的に作品への没入感が失われるのです。

「詰め込み」式の『2205』の場合、この一瞬の間に次々と物語が展開していきます。そうすると、物語に対して遅れをとっていき、より一層楽しめなくなるわけです。

『2205』のような情報量の多い、詰め込み式の作品では、以上のようなリスクがあると言えます。

〇『2205』の工夫

しかしよく見ると、『2205』も詰め込みばかりではありません。

『2205』で注目すべきなのは、デスラーの描写と古代の描写のバランスでしょう。

『2205』のデスラーは、まるで『2202』の古代のように、詳細かつ丁寧に描かれていきます。繰り返されたキーマンとマティウスの回想は、あたかも『2202』で繰り返された沖田の「お約束します」のよう。デスラーの行動を支えているものが何かを、『2205』は丁寧に描写していったわけです。

一方『2205』の古代は、非常にあっさりと描かれています。頑なに波動砲作戦にこだわった時も、スターシャへの説得依頼を拒んだ時も、雪に泣きついた時も、古代の行動には何らかのバックボーンがあったはず。でもそれを、『2205』は描写しなかったわけです。

では、こうして描写に差をつけた狙いとは、一体なんでしょうか。

ここには、デスラーの方が感情移入のための障壁が多く、古代はそうではない、という作り手の判断があったと推測します。観客に何のサポートもない状態では、デスラーに感情移入することは難しい、よって回想シーンを増やしてサポートを入れる。逆に、古代についてはデスラーよりも普遍的な悩みを抱えているので、観客に対するサポートは少なめにする。そういった判断があったのではないでしょうか。

〇狙いをもった工夫の重要性

もちろん、その工夫が私にはハマらなかったわけですが、それが狙いをもった工夫なら仕方ありません。最も重要なことは、狙いを持った工夫があり、それが検証可能であることです。それならば、作り手、あるいは受け手が修正を行えば、このような作り手と受け手のアンマッチは減らすことができるはず。そのことが最も重要なのです。

「ヤマトとしてどうあるか」ではなく「作品としてどうあるか」を重視して、ロジックな側面から、情報量の多い脚本を映像作品に再構築する。これは「ヤマト愛」というバイアスを持たない安田監督が現場の中枢にいたからこそ、実現したのではないでしょうか。仮に監督が古代進ファンであったなら、映像作品のバランスは違っていたことでしょう。これはスタッフィングの勝利とも言えます。

安田監督はサテライトを離れているため、3199に携わるかは分かりません。一方、良くも悪くも詰め込みの脚本を書く福井さんは続投です。安田監督が仮に続投できなくとも、今回安田監督を起用した、この路線は継続して欲しいなと思うばかりです。