【リメイクヤマト】異星人を「異星人」と見なさないスタンス
こんにちは。ymtetcです。
以前の記事で、「グローバル」が理想視された現代社会では、内戦ではなく地球人と異星人の戦いを描く『ヤマト』は難しい立場に置かれるのではないか、と述べました。
そこでふと感じたのは、リメイク・ヤマトが既に「地球人 対 異星人」の枠組みを実質的に撤廃しているのではないか、ということです。
今日はそのことについて考えていきます。
もちろん、リメイク・ヤマトは「地球人 対 異星人」の枠組みを崩してはいません。しかし、地球人と異星人を「同じアケーリアスの子ども」として同一視することで、事実上、この構図を撤廃しているのではないでしょうか。
「たとえ生まれた星が違っても、同じアケーリアスの子どもだ」。という発想は、「生まれた国が違っても同じ地球人」との思想を宇宙に拡大したものだと考えます。旧作までは「同じようなメンタリティを持つが、異なる存在」であった異星人が、「アケーリアス」という共通の先祖を設定することで、「生まれた星が違うが、元は同じ存在」に置き換わっているのです。
興味深いのは、このような発想が初めて登場したのはリメイク版ではなく『完結編』だということです。この転換は、1974年から83年の10年間にあった社会の変化と無関係ではないと考えます。それこそ「グローバル」の問題や、内戦を取り扱った『ガンダム』のヒットなどを受けて、『ヤマト』が作り変えられていった可能性もあるのではないでしょうか。