ymtetcのブログ

偶数日に『宇宙戦艦ヤマト』を考えるブログです。

「人類最後の希望」と「宇宙平和の使者」

こんにちは。ymtetcです。

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今回もこの記事の続きです。今回もナミガワ様の結論の域を出るものではありませんが、気づきとして書いていきたいと思います。

今回のタイトルには、「人類最後の希望」と「宇宙平和の使者」という二つの言葉を並べてみました。「人類最後の希望」とは、これまで私が語ってきたものそのままですが、「宇宙平和の使者」は、前回から用いている表現です。

以前「人類最後の希望」論をブログに書いた際、私は主題歌「宇宙戦艦ヤマト」の歌詞に注目しました。

地球を救う使命を帯びて 戦う

この部分です。「地球を救う使命を帯びる」存在としての宇宙戦艦ヤマト。これが「人類最後の希望」としての宇宙戦艦ヤマトでした。

一方、これと対比的な歌詞をもったテーマソングが『完結編』にありました。それが、前回の記事で引用した「ヤマト10年の賦」です。

それから時が過ぎ 何度も燃えて

ただ愛だけで とび立っていた

すべての星よ 緑に染まれ

願いよ届けと とんでいた

ここで語られているのは、「すべての星」が緑に染まる=平和になることを願って戦う存在としての宇宙戦艦ヤマトです。これこそ、「宇宙平和の使者」としてのヤマトです。

さて、ナミガワ様の結論の一つとして、この「人類最後の希望」としてのヤマト像と、「宇宙平和の使者」としてのヤマト像は時に矛盾するが、旧作の作り手はそれに自覚的ではなかった、というものがあったと思います。

もちろん、細かなシーンで言えば、『Ⅲ』でラジェンドラ号を助けた場面や『完結編』でディンギルの救援に向かった場面など、ヤマトが地球の利害を超えて行動した場面は存在しています。しかし大筋として、『ヤマトよ永遠に』以降の『宇宙戦艦ヤマト』も、基本的には「人類最後の希望」として振舞っていました。

すなわち、旧作の『宇宙戦艦ヤマト』におけるヤマトは、理想像としては「宇宙平和の使者」であろうとする作り手の願いはありつつも、実質的には、地球人類を守るための戦いを繰り返してきたことになります。

一方、リメイク版『2202』の古代進は、引き金を引き続ける未来を頑なに拒みました。それは、原作『さらば』の「平和を乱す者に対しては断固として戦わなければならない」との思想が、平和を心の底から求める一人の男にとっては”平和のために誰かを殺す”矛盾した行動であり、それが心をむしばんでいた、との解釈に基づいたものでした。

『2205』もまた、”目の前で溺れている人々を助ける”とのシンプルな願いのために再び引き金を引き続けることになったわけですが、ここで、この矛盾に作り手が向き合うのかどうかは、確かに「分水嶺」と言えると思います。

なお、旧作ヤマトも、この「人類最後の希望」と「宇宙平和の使者」の間にある噛み合わさなに、全く気付いていなかったわけではないと思います。というのも、それぞれの作品では、決戦がひと段落した後に、必ず反省会が開かれるからです。それは古代を中心にした反省であったり、宇宙の女神様が登場して平和を古代たちに説く、といった形をとることもありました。こうすることで、汎宇宙的な平和を求める理想と、地球人類を守るために戦うという二つの宇宙戦艦ヤマトアイデンティティを、何とかして埋めていこうとしたのではないでしょうか。

 

余談ですが、「宇宙平和の使者」としてのヤマト像が最も明確に表れたのは、『復活篇』で古代が(独断で)宣戦布告をしたあの場面だと思います。「平和を乱す者に対しては断固として戦う」『さらば』にそのまま連なる『完結編』までの作品だけでなく、20年以上の時を経て作られた『復活篇』にも同様の思想が見られるということは、それだけ西崎さんの中で、「宇宙平和の使者」としてのヤマト像が刻みこまれていたことを示しているのかな、とも思いました。